精神分析用語辞典

あいちゃくしょうがい:愛着障害

愛着障害 は

生まれて2年目までに形成される通常の母子間の愛着形成;
通常の愛着が2-3年以内に形成されない場合には、愛着は遅れて形成される

とする愛着理論に基づいている心理学用語である。

愛着障害

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あいちゃくりろん:愛着理論

愛着理論(あいちゃくりろん、Attachment theory )は、心理学における人と人との親密さを表現しようとする愛着行動についての理論から由来する概念。

他の人間と親密な距離を求めようとする傾向の事で、その人間が傍にいてくれるなら安心感が得られるというものである。これはグループセラピーの中でも使われる事がある。愛着理論は、元々は動物の行動観察の中から語られるようになった。人間の行動について使われるようになったのは、ジョン・ボウルビィらの『母子関係の理論』という大部の第二次大戦後のイタリアの孤児院での孤児の罹病率、死亡率の高さについての研究報告以来の事である。

愛着理論は、人間が社会的な存在である事を前提しており、その中では安全という事が重要なキーワードとなっていて、対象関係理論と密接な関係を持っている。

愛着理論

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あいちゃく:愛着

愛着(あいちゃく、あいじゃく)は慣れ親しんだ物事に深く心を引かれ、離れがたく感じる事を言う。

仏教における愛着

仏教における愛着(あいじゃく)は煩悩の一つであり、物欲に対する執着を指す「渇愛」と、男女間の恋愛や性欲に対する執着を指す「愛執」がある。

世俗的な欲望を捨てきれず、愛情にとらわれ執着すること。特に、無情の免れない事を悟らずに、苦の多き現世に執着する事を愛着生死という。転じて、慣れ親しんだものに、心を強く惹きつけられ、離れたくなくなるという意味でも使用される。

心理学における愛着

心理学における愛着(attachment:アタッチメント)とは、他人や動物などに対して築く特別の情緒的な結びつき、とくに幼児期までの子どもと育児する側との間に形成される母子関係を中心とした情緒的な結びつきという意味でも使われる。

愛着

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あどれなりん:アドレナリン

アドレナリン (adrenaline) (英名:アドレナリン、米名:エピネフリン、IUPAC組織名:4-[1-ヒドロキシ-2-(メチルアミノ)エチル]ベンゼン-1,2-ジオール)とは、副腎髄質より分泌されるホルモンであり、また、神経節や脳神経系における神経伝達物質でもある。分子式はC9H13NO3。

ストレス反応の中心的役割を果たし、血中に放出されると心拍数や血圧を上げ、瞳孔を開きブドウ糖の血中濃度(血糖値)を上げる作用などがある。

アドレナリン

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あにま・あにむす:アニマ・アニムス

分析心理学
分析心理学の創始者、カール・グスタフ・ユングは、すべての中で最も顕著な自律性の集合体である。それは男性の女性との相互作用と女性への態度を影響と同様に、夢の中に現れる像としてそれ自身が現れる。アニマ・アニムスの過程を想像力の一つの源であるとみなした。

その影に対するものが「apprentice-piece」で、その影にたいするものが「masterpiece」であると言った。

分析心理学
分析心理学の創始者、カール・グスタフ・ユングは、すべての中で最も顕著な自律性の集合体である。それは男性の女性との相互作用と女性への態度を影響と同様に、夢の中に現れる像としてそれ自身が現れる。アニマ・アニムスの過程を想像力の一つの源であるとみなした。

その影に対するものが「apprentice-piece」で、その影にたいするものが「masterpiece」であると言った。

アニマ(anima)
男性の無意識人格の女性的な側面を元型と規定した。男性が持つ全ての女性的な心理学的性質がこれにあたる。

男性の有する未発達のエロス(関係の原理)でもあり、異性としての女性に投影されることもある。

幼年期の母の投影に始まり、姉妹、おば、グノーシス主義におけるソピアーまたは「叡智」と呼ばれる段階で結ばれる、教師の要素を持つ将来の性的伴侶及び続く関係に続く典型的な発展における四重の理論を唱えた。

アニムス(animus)
女性の無意識人格の男性的な側を意味する。

女性の有する未発達のロゴス(裁断の原理)でもあり、異性としての男性に投影される。

アニマと比べて集合的であり、男性が一つのアニマしか持たないのに対し、女性は複数のアニムスを持つとされた。

女性が精神の中に類似の、男性的な属性と潜在力であるアニムスを持つと信じた。

出典
フィルム・インタビューで、アニマ・アニムスの原形が、「ほんの僅かな意識」または無意識と呼んで、完全に無意識のものであるかどうかは明らかにしなかった。恋に落ちた男性が、女性自身よりも寧ろ自身の無意識の女性像であるアニマと結婚した事に気付き、後になって盲目な選択に後悔するのを例に出した。

アニマ

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あぶらはむ・H・ますろー:アブラハム・H・マスロー

アメリカの心理学者。
1908年生まれ。1934年ウィスコンシン大学にてPh.D(心理学)を取得し、ブルックリン大学教授、ブランダイス大学心理学科長となる。1967年―68年アメリカ心理学会会長。1970年没。人間の心の問題を深くとらえた人間主義的な心理学アプローチをとり、「自己実現」「至高体験」などの概念を生み出した。

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いぞんしょう:依存症

依存症(いそんしょう、いぞんしょう)とは、WHOの専門部会が提唱した概念で、精神に作用する化学物質の摂取や、ある種の快感や高揚感を伴う特定の行為を繰り返し行った結果、それらの刺激を求める抑えがたい欲求が生じ、その刺激を追い求める行動が優位となり、その刺激がないと不快な精神的・身体的症状を生じる精神的・身体的・行動的状態のことである。

この状態のことを「依存が形成された」と言う。依存は、物質への依存(ニコチン依存症、摂食障害、薬物依存症、アルコール依存症など)、過程への依存(ギャンブル依存症、インターネット依存症)、人間関係・関係への依存(共依存、恋愛依存症など)がある。一般的には嗜癖・「中毒」と呼ばれることも多い("アルコール中毒"、"薬物中毒"など)が、現在医学用語として使われる「急性中毒」「慢性中毒」は、依存症とは異なる。

依存症

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いんぎんていねい・いんぎんぶれい:慇懃丁寧・慇懃無礼

この言葉を聞いたときの印象は? 婉曲丁寧(えんきょくていねい)は話し手が非常に文化的で、相手を重んじている印象を与える。一方、慇懃無礼(いんぎんぶれい)はどことなく相手を見下したように感じられる。

言葉の意味から見てゆくと、まず婉曲丁寧とはよく聞く言葉ではあるが、四文字熟語としての意味は国語辞典には載っていない。

婉曲は、(1)遠回しに、それとなく表現するさま。 (2)文法で、事柄の実現が可能であったり予想されたりすることを、はっきり断定しないで、推量のかたちでやわらげて表現する言い方。三省堂「大辞林 第二版」より。

丁寧は敬語のひとつ。話し手が、聞き手に対して敬意を直接表したり、改まった気持ちで、言葉遣いを丁寧にしたりする時に用いられるもの。口語の「です」「ます」「ございます」、文語の「侍り」「候」などの語がある。また、接頭語「お」も、「お弁当」「お酒」「お茶」などのように、丁寧語としても用いられる。三省堂「大辞林 第二版」より

したがって、婉曲丁寧はかなり持って回った敬語と言うことになるが、話の相手によっては必要となる表現法である。

一方、慇懃無礼はと言うと、 表面の態度は丁寧だが、心の中では相手を軽くみている・こと(さま)。
また、そのような態度。三省堂「大辞林 第二版」より。やはり悪いイメージである。

両者の違いは、婉曲丁寧は言葉の表現方法(文法的)を表し、慇懃無礼は心の状態を表していると言うことである。とは言いながら、婉曲丁寧な表現も使い慣れていないと、却ってぎこちないものとなり、「こいつ、本当にそんな風に私のことを考えてくれているのかい??」というまずい結果を招くことにもなる。

関連として、敬語の使い方も難しい。
×社長が申されました     → ○社長がおっしゃいました
×社長がおいでになられました → ○社長がいらっしゃいました
社長に ×ご苦労様でした

日本語は難しい。丁寧すぎてもいけないし、ぶっきらぼうでもいけない。最近は言葉が丁寧過ぎると帰って浮いてしまうことにもなる。結局は話し相手との関係で使い分けを上手にという、抽象的な話になってくる。しかし、真実と思えることは、先ず相手を慮る心があり、ついで幅広く話す機会を作って行けば、婉曲丁寧と単刀直入の間で言葉の選択が自由にできるようになるのではと考えられる。

キーワード:婉曲丁寧 慇懃無礼 敬語 単刀直入

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えす:エス

エス

Es(エス)は無意識において、無意識的防衛を除いた感情、欲求、衝動が詰まっている部分である。

エスからは人間の動因となる性欲動と攻撃性(死の欲動)が発生していると考えられている。生物学的論文がこの理論の元となっており、エスはとにかく人間の生物的な本能的なエネルギーが詰まっている部分である。または幼少期における抑圧された欲動が詰まっている部分でもある。このエスからはある条件が揃うと、自我を突き破ってあらゆる欲動が表現される。それを自我が防衛したり昇華したりして操るのである。

エスは視床下部のはたらきと関係があるとされた。なおこのEsという言葉は フリードリヒ・ニーチェが使用し、ゲオルグ・グロデック("Georg・Groddeck)の"Gesellschaft"(『エスとの対話)などで使われた用語で、彼と交流があったフロイトが採用したもの。1953年にアメリカ合衆国でフロイト翻訳全集が刊行された際、ジェイムズ・ストレイチーにより、エスはラテン語: id(イド)と訳され以後流布した。

エス

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えでぃぷすこんぷれっくす:エディプスコンプレックス

エディプスコンプレックス(独語:Oedipuskomplex,英語:Oedipus complex)は、ジークムント・フロイトの創始した精神分析における自我発達の中心概念である。男児の自我発達の場合、このコンプレックスが働くとする。

コンプレックスを日本語訳し、エディプス複合と呼ぶこともある。フロイト派では、男女共に用いられる用語である。

エディプスコンプレックス

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えどぅあると・しゅぷらんがー:エドゥアルト・シュプランガー

エドゥアルト・シュプランガー(Eduard Spranger、1882年6月27日-1963年9月17日)は、ドイツの教育学者で、哲学者、心理学者でもあった。ベルリン生まれ。

シュプランガーは、1911年からライプツィヒ大学の教授、1920年ベルリン大学に移り、1946年以降はテュービンゲン大学に在職した。その途中、1936年-1937年の間、シュプランガーは客員教授として日本に滞在していた事もあるが、これはヒットラーに批判的であったシュプランガーをドイツ国外に移し、冷却期間を置くという政治的意味合いもあった。また、彼は1934年-1944年、ベルリン水曜協会(de:Mittwochsgesellschaft)のメンバーでもあり、ここで時事的な議論を当時の主要な知識人たちと交わしていた。

シュプランガーは、ヴィルヘルム・ディルタイの解釈学の伝統の中に立っていた。彼はドイツにおけるいわゆる精神科学的教育の独自のスタイルをもった代表者の1人といってもいい。また彼は20世紀の前半の教育学のさまざまな論争の中で重要な役割を演じている。


彼はディルタイの世界観論に依拠しながら人間の『生の諸形式』(Lebensformen)のいわばカタログを作り上げた。それにより、理論的、美的、社会的、経済的、そして宗教的な人間、ならびに権力的な人間が区別された。これらの基本的な類型、なかでも経済的人間(homo oeconomicus)という表現に、シュプランガーは独自の概念規定を付け加えたが、これらの類型を人間の発達の諸段階の中で具体的なものとして描いて見せた

特に有名なのは、「郷土科」の教育的価値についての講演で、この中で彼はかなり早く精神的な根源感情や土地の繋がりあった感情といった概念を使って見せている。これらは後に彼の意図とは反してドイツ国家社会主義の思想の中核部分に取り込まれていった。1945年以後も、『郷土科』において、この講演はたびたび版を重ねている。こうした文化的な遺産の教育価値を高く評価するところで、彼の教育学の立場を文化教育学と評する。

またシュプランガーは、職業教育学の古典にも数えられ、その理論形成に重要な寄与を果たしている。とりわけ、彼はヴィルヘルム・フォン・フンボルトの立場に賛同して、一般教育と職業教育の関係の問題を詳論している。

この話題では、「3段階論」を彼は提唱する。人はまずいわゆる一般教育的な学校制度の中で基礎的な人間形成を身につける。これが自分の関心や才能に合わせてより専門的人間形成に特化されていく。これが第2段階である。ここで既に職業教育についても話を聞き、第3段階になって初めてこれが一般的な教育に発展させられていく。人は「今や、その中心的な領域から発せられた光」の跡をたどる、と彼はいう。この段階を経て、シュプランガーによれば、それぞれひとつの段階が完結する前に、新しい段階が始まるというふうに、成長発展が継起していくというのである。

エドゥアルト・シュプランガー

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えりく・H・えりくそん:エリク・H・エリクソン

エリク・ホーンブルガー・エリクソン(Erik Homburger Erikson, 1902年6月15日 - 1994年5月12日)は、発達心理学者で、精神分析家。

エリクソンが有名な「アイデンティティ」の概念を思いついた背景には米国のオースティン・リッグス・センターにて同一性に苦しむ、境界例(Borderline)のクライエントに会っていた事が契機とされている。エリクソンは「アイデンティティ」という概念を極めて多義的、動的なものとして捉えており、複数の著作を当たっても定義が困難な非常に複雑な概念である。この事は、エリクソンがidentificationとidentityを並列し、「果たしてidentityがidentificationの総体なのか」と問うている所にも見受けられる。(青年と危機)しかし、その後、心理学のみならず社会科学やあらゆる学問分野でアイデンティティ概念が多用されている事態を受け、エリクソン自身が困惑を隠し切れなかったと語っている。

大学の学歴を持たないままに、発達心理学者として知られるに至った。その後、アメリカに移住し、エール大学、カリフォルニア大学バークレー校、ハーバード大学の教員を歴任する。発達心理学者としては、幼児の心理の研究から始め、自分の年齢が上がっていくにつれて、青年期、成人期、老年期へとその関心を移していった。エゴ・アイデンティティ(自我同一性)という概念を提唱したことで知られる。

エリク・H・エリクソン

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えるんすと・くれっちまー:エルンスト・クレッチマー

エルンスト・クレッチマー(Ernst Kretschmer, 1888年10月8日 - 1964年2月8日)は、Prof. Dr. med. Dr. phil. h.c.を持つ精神医学者、心理学者。ヒトの気質を研究し、類型学的に分類した。主な著書に、『新敏感関係妄想』『ヒステリーの心理学』『体格と性格』『医学的心理学』『精神医学論集』『天才の心理学』等がある。ハイルブロンに近いヴュステンロートの出身。テュービンゲンで没。

まず、彼の立場は、テュービンゲン学派の伝統を受け継いだものといって間違いがないであろう。クレッペリンの体系を解きほぐし、それを体系化したことに彼の業績はある。また同時代のユングにも、注意を払いつつ、無意識の妥当性を模索していたのも有名な事である。その著作には、哲学的、芸術的センスがいかんなく発揮されており、彼の天賦の才を彷彿とさせる。

「ヒステリーの心理学」において、彼は日本のアイヌ民族に焦点を当て、ヒステリーを原初の動物の生態反射と同等の意味と解している。もちろん、これはパブロフの見解を含めての事でもある。

「体格と性格」では、彼は主に三つの区分けをした。肥満型、細長型、闘士型である。肥満型は社交的で、現実的な性格を基調とする。細長型は、自閉的、分析的、理想主義的な見解を持つ。闘士型は、鈍麻性や堅忍不抜の態度を基調とする。

「医学的心理学」では、脳科学的と精神医学の密接性を説き、様々な実例を挙げつつ、論を進めている。この本の内容は、現在の精神科医の教科書とほぼ同様であり、この時代を頂点とし、それが現代にまで至っている事を示している。

「精神医学論集」は、クレッチマーの死後、彼の子供のヴォルフガング・クレッチマーによって、編纂された本である。この本の中には、彼の断片的な思想と、当時のドイツの風潮などが書かれている。

「天才の心理学」は、いわゆる彼の集大成である。種々様々な天才たちを事例に挙げ、狂気と天才の関係を説いている。彼は最終的な結論として、天才の事を「人類中の稀有にして、極端なる変種」である、と述べている。しかし、天才当人たちの意見は多少なりとも違い、そこに主観的な世界と科学的な世界の乖離が見られる。またアルプス民族に躁鬱病を呈するものが多いという意見は、現在に至っては定説になっている。東京医科歯科大学の研究調査でも北方民族には圧倒的に躁鬱病を呈するものが多いのが分かっている。また彼が述べている、客観は主観によって制約される、は現在までの調査で明らかになっている。それとは反対に、天才と狂気の関係は現在のところ未だ定説を得ていない。

エルンスト・クレッチマー

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えろーす:エロース

エロース(古典ギリシア語:Έρως)、エロスは、ギリシア語でパスシオン則ち受苦として起こる「愛」を意味する普通名詞が神格化されたものである。ギリシア神話に登場する恋心と性愛を司る神である。
エロース

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えんげしょうがい:嚥下障害

嚥下障害(えんげしょうがい)とは、種々の原因によって嚥下の機能が損なわれること。

発達期(おおむね18歳未満)における発達障害や、発達期以降では様々な疾病や障害、またはその後遺症によって、神経や筋肉の異常が発生する。疾患としては、脳血管障害の後遺症によって発生するのが最も多い。延髄に嚥下中枢が存在するが、腫瘍がこの部分にあると嚥下反射はほぼ生じず、経管栄養を必要とする。また、加齢による様々な変化(歯の脱落、口腔乾燥症など)によっても、嚥下機能が障害され、餅をのどにつめるなどの事故が起こりやすく、誤嚥性肺炎で死亡することもある。

嚥下障害

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えんぱわめんと:エンパワメント

エンパワーメント(エンパワメントとも、Empowerment)とは一般的には、個人や集団が自らの生活への統御感を獲得し、組織的、社会的、構造に外郭的な影響を与えるようになることであると定義される。

対義語はディスエンパワーメント。エンパワーメントされていない状態のことをいう。

エンパワーメントとは、20世紀を代表するブラジルの教育思想家であるパウロ・フレイレの提唱により社会学的な意味で用いられるようになり、ラテンアメリカを始めとした世界の先住民運動や女性運動、あるいは広義の市民運動などの場面で用いられ、実践されるようになった概念である。

エンパワーメントの概念が焦点を絞っているのは、人間の潜在能力の発揮を可能にするよう平等で公平な社会を実現しようとするところに価値を見出す点であり、たんに個人や集団の自立を促す概念ではない。

エンパワーメント概念の基礎を築いたジョン・フリードマンはエンパワーメントを育む資源として、生活空間、余暇時間、知識と技能、適正な情報、社会組織、社会ネットワーク、労働と生計を立てるための手段、資金を挙げ、それぞれの要素は独立しながらも相互依存関係にあるとしている。[1]

地方自治や弱者の地位向上など下から上にボトムアップする課題を克服していく上で、活動のネットワークが生み出す信頼、自覚、自信、責任等の関係資本を育むことが、エンパワーメント向上の大きな鍵とされている。

エンパワメント

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おうごんひ:黄金比

黄金比(おうごんひ、En:Golden ratio, The Golden Mean/Rectangle)(=PHI)は、最も美しいとされる比。近似値は1:1.618、約5:8。線分を a, bの長さで 2 つに分割するときに、a : b = b : (a + b) が成り立つように分割したときの比 a : b のことである。

横と縦の長さの比の値が黄金比の近似値1.618であるような長方形二次方程式 x2 = x + 1 の正の解を黄金数 (Golden number) という[1]。しばしばギリシア文字のφ(ファイ)で表されるが、τ(タウ)を用いる場合もある。

黄金比は中末比(ちゅうまつひ、Extreme and mean ratio)や外中比(がいちゅうひ)とも呼ばれる。a : b = b : (a + b) が成り立つとき、 a を末項(まっこう、Extreme)、 b を中項(ちゅうこう、Mean)という。

黄金比

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かていないぼうりょく:家庭内暴力

家庭内暴力(かていないぼうりょく)とは、家族に対して振るわれる暴力。単に身体的暴行に限らず、暴言、支配、恫喝、ストーキング行為などの加害を含む概念である。しばしば性的な暴力、レイプを含む。

「家庭」内の関係に限らないものを含めドメスティックバイオレンス(DV)といい、特にパートナー(配偶者、恋人、内縁など)への暴力はそう呼ぶ場合がある。また、親から子に対するものは特に児童虐待と呼ぶ。家族内という閉じた人間関係の中で行われるので外部からは見えにくく、まして犯罪として発覚はしにくいことが多い。

配偶者による暴力(夫から妻へ・妻から夫へ)のほか、親から子へ(児童虐待)、或いは高齢の家族に対して。子から親、長子から下の子、祖父母に対してという場合も少なくない。

原因として、ストレス、発達障害、人格障害、引きこもりといった内的要因と、飲酒、薬物使用、非行、失業、高齢者介護疲れといった外的要因との複合など、実に様々である。近年では医療的アプローチも試みられている。

家庭内暴力

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かーる・ぐすたふ・ゆんぐ:カール・グスタフ・ユング

カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung、1875年7月26日 - 1961年6月6日)は、スイスの精神科医・心理学者。深層心理について研究し、分析心理学(通称・ユング心理学)の理論を創始した。

スイス、ボーデン湖畔のケスヴィルでプロテスタント牧師の家に生まれる。少年期は己の内面に深い注意が向けられ、善と悪、神と人間についての思索に没頭し,学生時代はゲーテ、カントやニーチェの著作に感銘を受けた[1]。内的な基盤を持たない形式的な信仰というものに疑問を感じ、牧師という職を継ぐことを特には望まず、かわって生理学的な知識欲を満たしてくれる医学や、歴史学的な知識欲を満たしてくれる考古学に興味を抱き、友人と活発に議論を交わし、やがて人間の心理と科学の接点としての心理学に道を定めた。精神疾患の人々の治療にあたるとともに疾患の研究もすすめ、特に当時不治の病とされた分裂病(統合失調症)の解明と治療に一定の光明をもたらした。ヒステリー患者の治療と無意識の解明に力を注いでいたフロイトと一時親しく意見を交わした。1948年に共同研究者や後継者たちとともに、スイス・チューリッヒにユング研究所を設立し、ユング派臨床心理学の基礎と伝統を確立した。またアスコナで開催されたエラノス会議において、主導的役割を演じることで、深層心理学・神話学・宗教学・哲学など多様な分野の専門家・思想家の学際的交流と研究の場を拓いた。

カール・グスタフ・ユング

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きしもじん:鬼子母神

鬼子母神(きしもじん/きしもしん)、梵: हारिती [haaritii]、ハーリティー)は仏教を守護するとされる夜叉で女神の一尊。梵名ハーリティーを音写した訶梨帝母(かりていも)とも言う。

三昧耶形は吉祥果(ザクロの実。種が多いことから多産・豊穣の象徴)。種子(種字)はウーン(huuM)。

夜叉毘沙門天(クベーラ)の部下の武将般闍迦(パンチーカ、散支夜叉)の妻で、500人(一説には千人[1]または1万人[2])の子の母でありながら、常に他人の子を捕えて食べてしまうため、釈迦は彼女が最も愛していた末子・愛奴児(ピンガーラ 嬪伽羅、氷羯羅天)を隠して子を失う母親の苦しみを悟らせ、仏教に帰依させた。以後、仏法の護法善神となり、子供と安産の守り神となった[3]。盗難除けの守護とも言われる。

インドでは、とりわけ子授け、安産、子育ての神として祀られ、日本でも密教の盛行に伴い、小児の息災や福徳を求めて、鬼子母神を本尊とする訶梨帝母法が修せられたり、上層貴族の間では、安産を願って訶梨帝母像を祀り、訶梨帝母法を修している。また、法華経では十羅刹女(じゅうらせつにょ)とともに鬼子母神が、法華信奉者の擁護と法華信仰弘通を妨げる者の処罰を誓っていることから、日蓮はこれに基づき文字で表現した法華曼荼羅に鬼子母神の号を連ね、鬼子母神と十羅刹女に母子の関係を設定している。このことが、法華曼荼羅の諸尊の彫刻化や絵像化が進むなかで、法華信奉者の守護神としての鬼子母神の単独表現の元となった。

その像は天女のような姿をし、子供を1人(末子の愛好とされる)抱き、右手には吉祥果(ザクロ)を持つ。吉祥果は人肉の味がするから、とも言われるが、これは後になって付け加えられた話である。

鬼子母神

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きょうかんかく:共感覚

共感覚(きょうかんかく、synesthesia, synæsthesia)とは、ある刺激に対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚現象をいう。 例えば、共感覚を持つ人には文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりする。 英語名 synesthesia は、ギリシア語で共同を意味する接頭辞 syn- と感覚を意味する aesthesis から名づけられた。感性間知覚。

共感覚

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きょうぞうだんかいろん:鏡像段階論

1937年発表の初期ラカンを代表する、発達論的観点からの理論。

鏡像段階(仏:stade du miroir)論とは、幼児は自分の身体を統一体と捉えられないが、成長して鏡を見ることによって(もしくは自分の姿を他者の鏡像として見ることによって)、鏡にうつった像(仏:signe)が自分であり、統一体であることに気づくという理論。生後6ヶ月から18ヶ月のあいだに幼児はこの過程を経るとされる。

幼児はいまだ神経系が未発達であり、自己の「身体的統一性」(仏:unité corporelle)を獲得していない。平たく言えば、自分が一個の身体であるという自覚がない。言い換えれば「寸断された身体」のイメージ(仏:image morcelée du corps)の中に生きているわけである。
そこで幼児は鏡に映る自己の姿を見ることにより、自分の身体を認識し、自己を同定していく。この鏡とはまぎれもなく他者のことでもある。つまり人は他者を鏡にすることにより、他者の中に自己像を見出す(この自己像が「自我」となる)。

すなわち、人間というものはそれ自体まずは空虚なベース(エス)そのものであって、いっぽう自我とはその上に覆い被さり、その空虚さ・無根拠性を覆い隠す(主として)想像的なものである。自らの無根拠や無能力に目をつぶっていられるこの想像的段階に安住することは、幼児にとって快いことではある。この段階が鏡像段階に対応する。

現実界・象徴界・想像界
詳細は「現実界・象徴界・想像界」を参照

人間は、いつまでも鏡像段階に留まることは許されず、やがて成長にしたがって自己同一性(仏:identité)や主体性(仏:sujet)をもち、それを自ら認識しなければならない。その際には言語の媒介・介入が欠かせない。
ラカンによれば、主体性は構造的に現実界・象徴界・想像界(仏: Réel symbolique imaginaire:R.S.I.と略称される)という三つの領界もしくは機能から成るものであり、鏡像段階を経て人が主体性を獲得し、言語に介入されるということは、すなわち象徴界へと参入するということであるとされる。
鏡像段階論

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きょうはくせいしょうがい:強迫性障害

強迫性障害(きょうはくせいしょうがい、英: Obsessive-Compulsive Disorder, OCD)は、精神障害のひとつ。従来、強迫神経症と呼ばれていたもの。アメリカの精神医学会によって策定されたDSM-IV(『精神失調の診断と統計の手引き』第4版)における精神の失調のひとつの分類であり、強迫症状と呼ばれる症状に特徴付けられる不安障害である。

強迫症状

強迫症状とは強迫性障害の症状で、強迫観念と強迫行為からなる。両方が存在しない場合は強迫性障害とは診断されない。強迫症状はストレスにより悪化する傾向にある。

強迫観念(きょうはくかんねん)とは、本人の意志と無関係に頭に浮かぶ、不快感や不安感を生じさせる観念を指す。強迫観念の内容の多くは普通の人にも見られるものだが、普通の人がそれを大して気にせずにいられるのに対し、強迫性障害の患者の場合は、これが強く感じられたり長く続くために強い苦痛を感じている。ただし、単語や数字のようにそれ自体にはあまり意味の無いものが執拗に浮かぶ場合もある。

強迫行為(きょうはくこうい)とは、不快な存在である強迫観念を打ち消したり、振り払うための行為で、強迫観念同様に不合理なものだが、それをやめると不安や不快感が伴うためになかなか止めることができない。その行動は患者や場合によって異なるが、いくつかに分類が可能で、周囲から見て全く理解不能な行動でも、患者自身には何らかの意味付けが生じている場合が多い。

強迫性障害の患者の主要な問題は、患者の三分の一は強迫観念であり、残りの三分の二の患者は強迫行為である[1]。

大半の患者は自らの強迫症状が奇異であったり、不条理であるという自覚を持っているため、人知れず思い悩んだり、恥の意識を持っている場合が多い。また、強迫観念の内容によっては罪の意識を感じていることもある。そのため、自分だけの秘密として、家族などの周囲に内緒で強迫行為を行ったり、理不尽な理由をつけてごまかそうとすることがある。逆に自身で処理しきれない不安を払拭するために、家族に強迫行為を手伝わせようとする場合もある。これは「巻き込み」と呼ばれる(詳細後述)。

原則として強迫観念や強迫行為の対象は自身に向けられたものであり、これによって患者が非社会的になっても、たとえば犯罪のような反社会的行動に結びつくことはない。

強迫性障害

強迫性障害

~わかっちゃいるけどやめられない~

早稲田大学人間科学部教授
野村 忍

 強迫性障害(強迫神経症)とは、簡単に言いますと「わかっちゃいるけどやめられない症候群」です。自分でも不合理だと思いながら何回も繰り返すので本人にとっては大変つらい病気です。よくみられるものは、トイレに人った後何回も手を洗う、ドアの力ギをかけたかどうかガス栓をしめたかどうか何回も確認するというものです。本来これらの行為は清潔を保ったり安全を確保するためにだれでも行いますが、それが何回~何十回も確認しないと気がすまない
状態になると社会的生活に支障をきたすことになりなんらかの治療が必要となります。

 強迫には、強迫観念と強迫行為があります。強迫観念とは、特定の考え(観念)が頭に思い浮かび、何回も同じ考えを繰り返すものです。そして、「夜、泥棒に入られたらどうしよう」とか「明日、火事になったらどうしよう」というような不安に強く悩まされるようになります。強迫行為とは、不潔をおそれて何回も手を洗う、火事にならないように火の元を何回も確認する、仕事でミスをしないように書類を何回も見直すといった確認行動です。普通の人は1、2回確認すると安心して次の行動に移れますが、強迫の人は1時間も2時間も同じことを繰り返して次に進めなくなります。

 神経心理学の研究によれば、強迫性障害の人は「カギをかけた」という自分の行動を脳の記憶の中にしまいこむことには異常ないのですが、「カギをかけた」記憶を思い出す(想起する)ことが困難になっていることがわかっています。そのために、カギをかけたかどうかという疑問が生じ、「泥棒に入られるかも知れない」という不安が強くなって、またカギを確認するということを繰り返します。

 このように強迫観念や強迫行為があって社会的な生活が支障をきたしている場合に、強迫性障害(強迫神経症)と診断します。また、強迫に関連する病気としては、摂食障害、アルコール依存症、ギャンブル依存症、小児のチックや抜毛症などがあります。これらは、いずれも自分で「不合理だ」あるいは「体に悪い」と思いながらも同じ行動を繰り返してしまい、セルフコントロールできない病態と考えられます。

 強迫性障害の治療は、認知行動療法と薬物療法です。認知行動療法とは、「認知や行動の問題を合理的に解決するために構造化された治療法」で認知の歪みを修正する(考え方を変える)というものです。強迫性障害に対しては、「暴露反応妨害法(エクスポージャー)」といって、不安・恐怖場面に直面させながら不安反応をコントロールできるようにする治療法が用いられます。薬物療法としては、三環系抗うつ薬であるクロミプラミンが強迫性障害に有効であることが確認され、この病気の原因として神経伝達物質の一つであるセロトニンが考えられるようになりました。次いで、選択的セロトニン再取込み阻害薬(SSRI)が登場し、これが第一選択薬の地位を占めることになりました。その他には、不安のレベルを下げるという意味で抗不安薬が併用されます。

 強迫~確認行為は、本来外界からの脅威に対して身の安全を守るための安全確保行動です。あるいは、不安・恐怖という不快な情緒を安定させるための行動によるコントロール法です。これが適切に行われれば何の問題もおこらないわけですが、気持ち的に余裕がなくなる、行動をコントロールできなくて過度に繰り返すようになると問題となります。したがって、日頃から心理社会的ストレスをためない、リラックス法を習得して不安のレベルを下げる、余裕のある生活を送って精神的にも余裕をもつ、一人でくよくよと考えこまないで相談できる相手(ソーシャル・サポート)を確保するなどが重要です。習慣化した行動を変更するのはなかなか大変です。「わかっちゃいるけどやめられない」ことをやめるのは至難のことです。自分一人では変容できないことでも、医師や心理療法士などの医療スタッフやあるいは家族の人の助けをかりれば何とかなるかも知れません。思いきって門をたたいてみましょう。

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ぎゃくたい:虐待

虐待(ぎゃくたい)とは、自分の保護下にある者(ヒト、動物等)に対し、長期間にわたって暴力をふるったり、世話をしない、いやがらせや無視をするなどの行為を行うことを言う。一言に虐待といっても、対象や種類は様々である。英語の"abuse"は「濫用」という意味だが日本語に翻訳する時その言葉が指していた虐待(や酷使)を使う事にした。

虐待

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げんけい:元型(アーキタイプ)

元型 (げんけい、ドイツ語:Archetyp または Archetypus,英語:archetype) は、カール・グスタフ・ユングが提唱した分析心理学(ユング心理学)における概念で、夜見る夢のイメージや象徴を生み出す源となる存在とされている。集合的無意識のなかで仮定される、無意識における力動の作用点であり、意識と自我に対し心的エネルギーを介して作用する。元型としては、通常、その「作用像(イメージ等)」が説明のため使用される。

アーキタイプ

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げんじつかい:現実界

現実界・象徴界・想像界(仏:le Réel, le symbolique, l'imaginaire)とは、主にジャック・ラカンの精神分析理論で用いられる、人間にとっての世界の在り方ならびに分類。1974年から1975年にかけてのセミネール「R.S.I.」に詳述され、シェーマRSI(schéma RSI)と概括され、RSIと略称される。

現実界 [編集]
フロイトの現実原則や、カントの命題「Ein leerer Gegenstand ohne Begriff.(独語)」などから敷衍した概念で、空虚で無根拠な、けっして人間が触れたり所有したりすることのできない世界の客体的現実をいう。
ラカンは、フロイトの後継者であることを自称してはばからないが、フロイトのいう心的現実(英:Mental Reality)と、ラカンのいう現実(仏:le Réel)とは、まるで異なった概念なので注意を要する。

現実界と言語
ラカンによれば、現実とはけっして言語で語りえないものであるが、と同時に、人間は現実を言語によって語るしかない、という一見逆説的なテーゼが成り立つ。

一般的な理解のために、単純化したモデルで例を示すと、たとえば或る大事件に遭遇した人々は、口々にその事件を語る。これは、その大事件という現実を、言語という象徴的なものを以って描き出そうとしているわけである。ある証言者は事件の決定的瞬間を語り、別の証言者は事件の背景に隠された事情を語るかもしれない。こうして、あらゆる角度から証言がなされ、これらを集めてマスコミは「事件の全容を解明しよう」とする。しかし、その事件をすべての角度から語り尽くすのは不可能である。

同じように、どうがんばっても言葉では現実そのものを語ることはできない。「言語は現実を語れない」のである。ところが同時に、人は「言語でしか現実を語れない」。これら二つの命題は、平板に見れば矛盾しているかのように聞こえるが、メビウスの輪のような立体的な論理としてつながっている。

「言語との出会い」は、現実をラカンのいう「不可能なもの」(仏:l'impossible)に変える。われわれは一生、現実に触れるということに対する抵抗とあこがれの間で揺れ惑う。しかし人が事故的に現実を垣間見「てしまった」り、現実に触れ「てしまった」りすることがある。たとえばそれは狂気である。ラカンは精神病を条件づける要因として、このことを見出した。
またラカンは、人は、すべて世俗的な価値体系を脱すると思われる「死ぬ瞬間」にも現実が見えるのではないか、とも言っている。

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こうあいきせいかく:口愛期性格

精神分析学のリビドー発達論に基づく性格特徴について説明しているが、性格的な傾向・特性は各発達段階への「リビドーの退行・固着」によって規定されてくることになる。口愛期(口唇期)へのリビドーの退行・固着によって発生する口愛期性格については、フロイトの弟子のK.アブラハムが関心を持って研究を進めたが、「過度の愛情欲求・病的な依存性・他者への同一化による異常な世話好き(奉仕欲求・自己犠牲)」などを特徴とする。

口愛期性格を簡単に表現すると、他者の言動によって過敏に影響を受けやすい性格であり、発達早期に生起する「見捨てられ不安」を病的に持続させているために、「能動的な依存欲求」や「受動的な自己犠牲(同一化による奉仕)」によって相手の自由や行動を制限しやすい。口愛期性格の改善をするためには、「精神的に安心・満足できる生活環境」を準備して、段階的に「相手との距離感」を広げていき、孤独に対する耐性(トレランス)と精神的な自律性を高めることが必要になってくる。

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こうしんあいこちゃく:口唇愛固着

今回の恋愛心理学は「キスが好きな人の性格は??」です。

あなたはキスするのは好きですか??わたしは超がつくほどの「キス魔」です(^^;)(汗)キスをすると安心したり、暖かい気持ちになりますよね★では、キスが好きな人の性格ってどんな性格なのか見ていきましょう。

まず、あなたはタバコの存在をご存知でしょうか??たぶん、吸った事はなくても、見たことがない人は一人もいないと思います。タバコの箱を見ると下の方には「喫煙はあなたにとって脳卒中の...」と注意書きを書かれていますね。ヨーロッパの方ではタバコの箱に肺がん患者の肺が印刷されていて、タバコを吸うと死に至る可能性が高くなるということまで書かれています。それでも、タバコを買い求める喫煙者がいなくならないのはなぜでしょうか??ニコチンが中毒性を持っていることもありますが、精神分析学的には性的本能の「口唇愛期」と関係すると考えられています。タバコは口で吸い、唇を刺激すること、そのことが口唇愛期の快感を満たしてくれるんですね★

口唇愛期とは通常、産まれてから1歳半くらいまでの性的エネルギーが口唇に向けられている時期のことを言いますが、その時期に口唇愛が十分満足に与えられなかったり、逆に過剰に与えすぎてしまうと、性的本能(リビドー)が口唇に固着してしまいます。すると、大人になっても口唇から快感を得ることに執着するという「口唇愛的性格」になっちゃうんですね★

赤ちゃんはお腹がいっぱいになっても、お母さんのお乳を離さなかったり、求めたりし、生理的欲求を超えて、お乳に快感を求めていることが分かります。それが、満たされなければ「指しゃぶり」などで満たしています。そして、その口唇本能(リビドー)が強い人は恋人へのキス等の接触欲求が他の人よりも強いんです。

そして、タバコなどの口唇を刺激するものが手放せない人は、実はこの口唇愛に本能が固着している「口唇愛的性格」の人なんですね★要するに「誰かに甘えたい」という気持ちが強い人なんですね(^^)誰かに甘えたいという気持ちが強いことは悪いことじゃありません。誰かに甘えたい気持ちが強い人とは「誰かに甘えたい」=「人の愛し方を人一倍知っている人」です。あなたの長所の一つなので自信を持ってくださいね(^^)b

PS.ということは...「わたし」は甘えたがりなのか!?となりそうですが...その通りです(爆)私は授業のとき、生徒によく言われるのですが、「先生って見た目とのギャップが凄いですよね」とか初めてお会いしたとき怖い人かと思いました」とかわれます(汗)あなたには本性がばれちゃいましたね(汗)

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こうしんきこちゃく:口唇期固着

口唇での欲求が十分満たされなかったり、十分以上に満たされて成長すると、この段階の欲求に異常にこだわるようになる。これを口唇期固着(英語:oral fixation, oral craving)という。もし、乳離れが早すぎて口への刺激が不足した場合、悲劇的で不信感に満ち、皮肉屋で攻撃的なパーソナリティが形成される可能性がある。逆に乳離れが遅く刺激を多く受けた場合、タバコやアルコール摂取の意欲の増加、爪を噛む行為などの症状がでる可能性がある。

口唇期固着

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こうしんき:口唇期

口唇期(こうしんき、独語:Die orale Phase, 英語:Oral stage)とは、ジクムント・フロイトが主張する5つの性的発達段階(独語:Triebtheorie, 英語:Psychosexual development (stages); リビドー発達段階)の中で最初の段階。

口は最初に経験する快楽の源で、生存のためにある。赤ん坊は本能的に吸う。口から満足を得ることで、赤ん坊には信頼と楽観的パーソナリティが発達する。時期については諸説あるがおおむね出生時から2歳までとされる。

口唇期

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こうもんきさでぃずむ:肛門期サディズム

肛門期にも肛門サディズム(肛門加虐性)というものがあります。

泣いたり、乳首を噛んだりするしかなかった口唇加虐とは違い、今度はウンチや、オシッコという強力な武器があります。しかも産まれて間もない口唇期とは異なり、憎悪する心が育ってますから、なおさらこの加虐性も強力です。

たとえば、トイレでウンチやオシッコをせずに、衣類や室内を頻繁に汚す場合などは「何か不満なことでもあるのかな(不満が溜まっているのかな)・・・」と考えてあげてみてください。子供にしてみても、衣類が汚れれば自分が気持ちの悪い思い(肛門被虐性)をするのですが、そこまでしてでも、訴えたい何かがあるのかも知れませんね。

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こうもんき:肛門期

肛門期(こうもんき、独: Analen Phase、英: Anal stage)は、ジクムント・フロイトが主張する5つの性的発達段階(独: Triebtheorie、英: Psychosexual development、リビドー発達段階)のうちの1つで、口唇期に次いで2番目に表れる。

フロイトによれば、この時期の小児性欲の中心は肛門である。子供は排便を意識し、コントロールの方法を教えられ、適切なときと場所でトイレに行くという「トイレットトレーニング(排泄訓練)」が可能になる。時期については諸説あるがおおむね2歳から4歳頃までとされる。この時期の子供には自己中心的、情動的な傾向が強い。そのため自分の欲求を即座に満たそうとする場合がままある。排泄という肉体的反応を適切に行なえるようになることでそうした情動的な性格に対し何らかの影響があるとされる。

この時期の子供に対して親は規則正しく衛生的に排便するように励ますことが求められる。そうした親からの働きかけが社会的圧力となり、適切な排泄行為をしなければならない、という抑圧とそれが達成できたときの達成感や充実感を得る。また排便のタイミングを自分で判断することにより、自信と「ものをあきらめる能力」が発達し、子どもは自律のための重要な一歩を踏み出す。ただし、子供をトイレに無理矢理いかせたり、過度にタイミングや清潔さに厳しすぎると、子供のパーソナリティにさまざまな問題を生じる可能性があるともされる(後述の肛門的固着参照)。

肛門期

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こぎと:コギト

我思う、ゆえに我あり

我思う、ゆえに我あり(われおもう、ゆえにわれあり)はルネ・デカルトが自著「方法序説」の中で提唱した有名な命題である。原語はフランス語でJe pense, donc je suis. ラテン語訳でcogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito - 私は思う、ergo - それ故に、sum - 私は在る)、英語では "I think, therefore I am"。 ちなみにラテン語訳はデカルトと親交のあったメルセンヌ神父によるもので、デカルト自身は「哲学原理(Principia philosophiae)」で初めてこの言葉を使っている。

我思う、ゆえに我あり

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こんぷれっくす:コンプレックス

心理学・精神医学用語におけるコンプレックス(独:komplex 英:complex)とは、「感情複合」すなわち「フィーリング・トーンド・コンプレックス(Feeling Toned complex)」とも呼ばれる。

もっとも、この意味でのコンプレックスは、フロイト派、アードラー派、ユング派など、深層心理学諸学派の間でだけ流通する概念であり、心理学や精神医学の世界で広く受け入れられているわけではない。

この語を最初に精神医学に持ち込んだのはヨーゼフ・ブロイアーらしい。しかし、この語を有名にしたのはユングである。ユングの定義によれば、コンプレックスとは、何らかの感情によって統合されている心的内容の集まりである。ある事柄と、本来無関係な感情とが結合された状態であり、これを「心的複合体」とも訳す。

日本では、早くから西洋医学の導入と共に、フロイトの精神分析もまた心理学・精神医学上の学説として入って来ていた。フロイトの精神分析においては、「エディプス複合(エディプス・コンプレックス)」が中心的な位置を占めていた。しかし、元々西洋人の意識・無意識の動力学理論でもあった精神分析は、日本人の心理には余り適合しなかった。

戦後、アメリカより、アルフレート・アドラーの「人格心理学」が日本に入ってきた。アードラーの理論は、「劣等複合(inferiority complex)」を理論の中心に置いている。劣等複合の克服を通じて、人格の発達が成立するとしたアードラーのこの理論は、日本人には親しみのある内容のため、戦後の日本ではフロイトの理論よりも、アードラーの理論が流通し、また、その理論の中心概念である「劣等複合」が一般になった。

「劣等複合」とは「劣等コンプレックス」の事であるが、アードラーの理論の一般的な受容と、とりわけ、このコンプレックスが日本において流布したため、コンプレックスの名で、「劣等複合」を指すような日常の用語法が生まれた。日本では今なお、「コンプレックス」と言えば、暗黙に「劣等コンプレックス」の事を指す傾向がある。更に、精神分析の用語から離れて、「コンプレックス」を「劣等感」の同義語とするような誤用も生まれ、今に至っている。なお、劣等感とは劣等なものを合理的に認めるものであるため、劣等コンプレックスを克服したものであるとも言える。

さらに分析心理学上フェティシズムがコンプレックスとほぼ同義であるため、フェティシズムの分野にもコンプレックスという用語が使われる事もある。心理学用語ではなく俗語であるが、概念的には間違っているとは言い切れない。この場合、正確には「あるフェティシズムから想起されるコンプレックス」の事を意味する。

コンプレックス

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ごーどん・おーるぽーと:ゴードン・オールポート

ゴードン・オールポート(Gordon Willard Allport, 1897年 - 1967年10月9日)は、アメリカ合衆国の心理学者。兄フロイド・オルポートも心理学者である。インディアナ州モンテズマに生まれる。彼の仕事には、『人格の形成、パターン、そして成長』 (Becoming, Pattern and Growth in Personality) や『個人とその宗教』 (The Individual and his Religion) がある。

オールポートは、パーソナリティの特性論者とみなされており、個人のパーソナリティの中でとりわけ優勢な特性とは何かといった議論を主に展開している。つまるところパーソナリティの発達の中で大きな役割を果たしている特性の研究が彼の中心的な関心事である。パーソナリティというものが顕著な力となっていくとき、それはなかんずく基礎特性によるところが大きい。中心的な特性と基礎特性は、環境因子によって大きく左右される。

彼がハーバード大学にいた時分、彼は将来のPh.D候補たちを数多く教え、その中にはスタンレー・ミルグラムもいた。 オールポートはかつてウィーンにジークムント・フロイトを訪ねていったことがある。オールポート22歳のときである。ウィーン到着時に、彼はフロイトの仕事場までの電車の中で出会った潔癖症の子どもの話を詳しくフロイトに話して聞かせた。この子は、いくらお母さんが大丈夫だからといっても、「あの汚いおじさんの隣には座りたくない」と断固として座ろうとしなかったのである。オールポートが話すのをしばらく聞いた後、フロイトは、「その少年が君だったということかね?」と尋ねた。オールポートはその言葉にかなり気分を害した。オールポートは話題として、現実にあった話をしたのだ。意識的なかつ経験的な話であり、セラピーの場でもないはずであるのに、フロイトは、その話を彼の「無意識」につなげて捕らえたのだ。以後、オールポートはフロイトの精神分析に信頼を失った。この偶発的事件がオールポートと彼の理論になかなか拭いがたい重荷となり、彼を意識的動機の研究に専念させるような方向に導いた。 。

オールポートは、パーソナリティの研究への貢献に加えて、社会心理学でも重要な業績を残している。特に、態度の研究がよく知られている。また熱心なキリスト教信者でもあった彼は、宗教心理学でもいくつかの業績を残している。これらのテーマについての彼の著作のいくつかには、彼の偏見についての社会心理学への関心の幾ばくかが反映されているのをみることができる。

ゴードン・オールポート

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さでぃずむ:サディズム

サディズム(英語:Sadism)は、加虐性欲(かぎゃくせいよく)ともいい、相手(動物も含む)に身体的または精神的に苦痛を与えることによって性的快感を味わったり、そのような行為を想像したりして性的興奮を得る性的嗜好の一つのタイプである。極端な場合、精神的な障害とも見なされ、この場合は性的倒錯(パラフィリア)となる。

サディズム

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しにふぃあんとしにふぃえ:シニフィアンとシニフィエ

シニフィアン(signifiant)とシニフィエ(signifié)はフェルディナン・ド・ソシュールによってはじめて定義された言語学用語。シニフィアンはフランス語の動詞 signifier(意味する)の現在分詞で「意味しているもの」「表しているもの」を指し、シニフィエは同じ動詞の過去分詞で「意味されているもの」「表されているもの」を指す。日本語ではシニフィアンを「記号表現」「能記」など、シニフィエを「記号内容」「所記」などと訳すこともある。なお、「能記」「所記」は『一般言語学講義』の小林英夫による訳業以降ひろく用いられたが、漢語的な表記であるため、最近では用いられることは少ない。

シニフィアンとは、語のもつ感覚的側面のことで、例えば海という言葉の「海」という文字や「うみ」という音声のことを言う。他方シニフィエとは、このシニフィアンによって意味されたり表される海のイメージや海という概念ないし意味内容のことである。また、表裏一体となったシニフィアンとシニフィエとの対のことを、「シーニュ」(signe)すなわち「記号」と呼ぶ。

シニフィアンとシニフィエ

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しゃどー(かげのじぶん):シャドー(影の自分)

心理学における影 [編集]
影の現象は、宗教的に重要な意味を持ち、人の生死と関係していた。人の生死は、肉体的な意味の生死と、心理的な意味の生死があり、人の発達と成長は、心理的に未熟な自己の死を経験し通過し、新しい自己として生まれることであるとも言える。

このような構想において、カール・グスタフ・ユングは彼の分析心理学において、自我を補完する元型として、影(Schatten)の元型を提唱した。影の元型は分析の初期の段階で現れることが多く、また異性として現れるアニマ・アニムスと違って、被分析者と同性の人物として現れることが多い。影は、その人の意識が抑圧したり、十分に発達していない領域を代表するが、また未来の発展可能性も示唆する。その人の生きられなかった反面をイメージ化する力といえよう。

影は否定的な意味を持つ(しばしば悪や恐怖の対象としてイメージ化される)場合が多いが、この否定性を乗り越えて、自己を発達させねばならない。それは影を無意識の世界に追いやるのではなく、むしろ影との対決、影を自分自身の否定的側面、欠如側面と意識化し、影を自我に統合することが、自我発達の道であり、自己実現の道(個性化の過程)であるとユングは唱えた。

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しょうちょうかい:象徴界

現実界・象徴界・想像界(仏:le Réel, le symbolique, l'imaginaire)とは、主にジャック・ラカンの精神分析理論で用いられる、人間にとっての世界の在り方ならびに分類。1974年から1975年にかけてのセミネール「R.S.I.」に詳述され、シェーマRSI(schéma RSI)と概括され、RSIと略称される。

人間存在を根本的に規定する言語活動(仏:langage)の場のこと。また、言語活動の中で生じるどのような人間関係も、この場そのものを共通の第三者として受け容れなければならない。そのためラカンは共通の第三者を大文字の他者と名づけた。

象徴界の参入と去勢 [編集]
人は、胎児として子宮の内部に浮遊している状態では、言葉を持つ必要がない。だから言語活動は発生しない。
さらに、生まれてからも原初の状態を象徴的にいうならば、乳児の口には母の乳房が詰まっている。これは乳児の必要をすべて満たしているから、言葉を発して何かを求める必要もないし、そもそも口に乳房が詰まっているから言葉の発しようもない。いっぽう、これは乳児にとっては全世界を支配しているかのような快楽の状態である。これをラカンは享楽(仏: jouissance)と呼ぶ。

だが、やがて乳児の口から母の乳房が去る。そこに欠如(もしくは不在、存在欠如とも)が生まれる。欠如が生まれて初めて、乳児は母を求めるなり、乳を求めるなり、「マー」などと叫びをあげる。これは言語 - より正確には言語活動(仏:langage) - の発生である。

こうした象徴的な意味での言語の発生は、人間が人間となるためにどうしても通らなければならない段階である。言語とは、人間が自分の頭に思い描いているもの、すなわち想像的なもの(仏:l'Imaginaire)を他者と共有しようとしたり、他者に伝達しようとしたりするために用いる象徴的なもの(仏:l'symbolique)である。ゆえに、言語は象徴界のものであると云える。

いっぽう、社会はさまざまな人間がせめぎあう場であるがゆえに、無数の掟・契約・約束事などでできている。こうした掟は、象徴的な意味では言語で書かれているわけである。たとえば、不文律や「黙契」といった概念ですら、人間が言語を持たなければ存在しえない。また、掟を与えるのは象徴的な父である。
ゆえに、上記の意味においては象徴界とは掟であり、父であり、言語であるといった図式が成り立つ。

また、さまざまな法に満ち満ちた、人々の言語活動の場である社会を、ラカンは大文字の他者(仏:Grand Autre)と呼ぶ。

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しんけいしょう:神経症

神経症(しんけいしょう)とは、精神医学用語で、主に統合失調症や躁うつ病などよりも軽症であり、病因が器質的なものによらない精神疾患のことをさす。軽度のパニック障害や強迫性障害などがこれにあたる。これらはかつて、不安神経症、強迫神経症と呼ばれていた。

概説
歴史的にはフロイトが、精神分析を創始するにあたって当初は神経症の患者を対象としていたことが有名である。フロイト以降も神経症の精神力動的な研究が主流であった。

しかし最近はDSM-IV-TRやICD10などの記述的な診断基準(病気の原因によってではなく症状によって診断するもの)が主流となっているため、臨床的診断として神経症が使用されることは少なくなった。

神経症の病名が使用されることが少なくなった理由として、記述的な診断基準の台頭に加えて、精神疾患の生物学的メカニズムが明らかにされたことや薬物療法の進歩もあげられる。例えば、かつて強迫神経症と言われていたものは超自我や肛門期固着などで解釈され心理療法が治療の主体であったが、SSRIなどの薬物が有効であることや脳のセロトニン系の異常が明らかになり、強迫性障害と名を変えた。

特に小児期に起こる神経疾患(夜泣き、寝ぼける、疲労感など)は、疳(かん)ともいわれ、古くは「疳の虫」(かんのむし)という虫によって起こると信じられ、寺社などで「虫(蟲)封じ」の祈願が行われた。

なお神経症にあたるドイツ語はNeurose(ノイローゼと読む)であり、日本でもノイローゼを神経症の意味で使うこともあるが、一般の人が「ノイローゼ」と言う場合はもっと広い意味に使われるので注意が必要である(ノイローゼ参照)。

神経症

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しんてきがいしょう:心的外傷

心的外傷(しんてきがいしょう)とは、外的内的要因による衝撃的な肉体的、精神的ショックを受けた事で、長い間心の傷となってしまうことを指す。外傷体験(traumatic experience)ともいう。これが精神に異常な状態を引き起こすと心的外傷後ストレス障害となる。

身体的外傷との混同のおそれがない場合には、単に外傷と呼ぶことがある。日本では、ジークムント・フロイトの著作の強い影響からトラウマ (trauma. 古代ギリシア語で「傷」の意。比喩的に心の傷を trauma と呼ぶのは、フロイトが初めてではない)とも呼ばれる。なお、近代西洋語で trauma は、ギリシア語と同様に、第一義的には身体の外傷を指す。また、しばしば誤解されるが、ドイツ語の traum(夢)は語源を異にする。

典型的な心的外傷の原因は、幼児虐待や児童虐待を含む虐待、強姦、戦争、犯罪や事故、いじめ、暴力を含む悲惨な出来事、実の親によるDV、大規模な自然災害などである。

重度の心的外傷(トラウマ)によりPTSDなどの精神疾患が生じた場合は、精神療法(心理療法)や薬物療法などの治療が有効である。

症例の目安としては(成人であっても)幼児還り現象が見られる事がある。これは保護を求めるSOS信号として罹患者から発せられるが、時に夜驚症の反応を交えるため、対応には慎重さが要求される。軽度の場合はヒステリー状態が短発的に継続発生(間を置いて寄せ返す波の様に)するのが平均の状態ではあるが、社会生活を営む上で若干の弊害がある為、専門的治療が必要な場合も有りうる。

全く治療せずに罹患者を放置した場合、自傷行動を含む危険行為を行う場合もある。仮に放置状況が継続しうる環境に患者が居ても、本人自身による回復迄の時間と費用は対数規模になる為、治療優先の判断が必要と思われる。

心的外傷

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じが:自我

精神分析学における自我

ジークムント・フロイトにおけるdas Ich(以下自我とする)は精神分析学上の概念である。ここでは自我に関する超自我(ちょうじが)とエスについても説明する。なおアメリカの精神分析学においては、1953年にジェイムズ・ストレイチーによるフロイト翻訳全集の英訳の際、独: das Ich(自我)は羅: ego(エゴ)、独: Über-Ich(超自我)はsuper-ego(英: super羅: ego)(スーパー・エゴ)、独: Es(エス)は羅: id(イド)と訳され用語として流布した。

詳しい説明あり。

自我

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じこあいせいじんかくしょうがい:自己愛性人格障害

自己愛性人格障害(じこあいせいじんかくしょうがい、Narcissistic Personality Disorder)とは、ありのままの自分を愛せず、自分は優越的で素晴らしく特別で偉大な存在でなければならないと思い込む人格障害であるとされるが、過度に歪んだルールである内的規範が弱いケースであるため、精神病的に扱われる事もある。

自己愛性人格障害

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じこどういつせい:自己同一性

自己同一性(じこどういつせい、セルフ・アイデンティティ(Self Identity))とは、自分は何者であり、何をなすべきかという個人の心の中に保持される概念。自我同一性(じがどういつせい)ともいう。エリク・エリクソン(E・H・Erikson、1902年- 1994年)による言葉で、青年期の発達課題を語るキーワードである。

自己同一性

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じしょうこうい:自傷行為

自傷行為(じしょうこうい)とは自らの身体を意識的・無意識的に拘らず傷つける事を言う。日本ではリストカットが有名である。虐待のトラウマや心理的虐待及び摂食障害、低い自尊心や完璧主義と正の相関関係があると考えられている。自傷行為は多くの場合文化的タブーとされる。

自傷行為は、深刻な症状であるにもかかわらず、"精神障害の診断と統計の手引き (DSM-IV TR)"では公式の疾患名としては認められていない。治療は欧米では認知行動療法が主体であり、また味付けとして薬物療法が行われるが、なかなか治りにくい(治療抵抗性が高い)。背景となる疾患がどのようなものであるか(一例として境界性人格障害、統合失調症、知的障害などが挙げられる)によっても治療方針は全く異なってくるので患者本人および家族に自傷行為についての誤解を解いてもらうことなど、その評価が非常に重要である。

脳の器質的障害が原因とされる発達障害の一種の自閉症にも自傷と呼ばれる行動障害があり、自分の手を噛む、壁や床に頭を打ち付ける、自分の顔を叩くなどの行動が見られることがある。

自傷行為

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じゃん・ぴあじぇ:ジャン・ピアジェ

ジャン・ピアジェJean Piaget, 1896年8月9日 - 1980年9月16日)は、スイス心理学者。20世紀において最も影響力の大きかった心理学者の一人。知の個体発生としての認知発達と、知の系統発生としての科学史を重ね合わせて考察する発生的認識論を提唱。発達心理学者としては、「質問」と「診断」からの臨床的研究の手法を確立。子どもの言語、世界観、因果関係、数や量の概念などの研究を展開した。

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じょん・ぼうるびぃ:ジョン・ボウルビィ

ジョン・ボウルビィ(John Bowlby,1907年2月26日-1990年9月2日)は、イギリスの医師、精神分析家、さらに母子間の絆研究の開拓者としても知られている(愛着理論を参照のこと)。

ジョン・ボウルビィ

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じれんま:ジレンマ

ジレンマ (dilemma) とは、

ラテン語、ギリシャ語においては、二つの仮定や前提(di-lemma)から導き出される、矛盾や障害や問題を意味し、日本語では、「両刀論法」[1]という。「進退両難」、「板ばさみ」という「二方向のどちらも行けない」、「二方からの相容れない要求によって身動きが取れない」といった表現も表記されている[2]。転じて「抜き差しならない羽目」[3]や「窮地」[4]という意味にも使われるようになった。
ある問題に対して、2つの選択肢が存在し、そのどちらを選んでも何らかの不利益があり、態度を決めかねる状態
哲学・論争などの分野では、前提を受け入れると、2つの選択肢の導く結論がともに受け入れがたいものになることを示し、議論の相手を困らせる論法。
2つの選択肢がともに受け入れ難いことを比喩的に表現して「ジレンマの角(つの)」と言うことがある(角は2つで、とがっていて不愉快なことから)。

論理学では、「A または B である」「A ならば C である」「B ならば C である」という仮定から「C である」という結論を導くことをジレンマと呼ぶ。

選択肢が3つある場合にはトリレンマ(trilemma)と呼ぶ。

ジレンマ

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じーくむんとふろいと:ジークムント・フロイト

ジークムント・フロイト(ドイツ:Sigmund Freud、1856年5月6日 - 1939年9月23日)は、オーストリアの精神分析学者。オーストリアの白人系ユダヤ教徒アシュケナジーの家庭に生まれた。神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法、無意識研究、精神分析の創始を行い、さらに精神力動論を展開した[1]。

非常に詳細で精密な観察眼を示す症例報告を多数残した。それらは、現在においても次々と新しい角度から研究されている。
フロイトの提唱した数々の理論は、のちに彼の弟子たちによって後世の精神医学や臨床心理学などの基礎となったのみならず、20世以降の文学・芸術・人間理解に広く甚大な影響を与えた。

弟子たちは、フロイトの考え方のどこかしらを批判した上でこれを受け継ぎ、様々な学派に分岐し、それぞれ独自の理論を展開していった。

ジークムント・フロイト

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そうぞうかい:想像界

現実界・象徴界・想像界(仏:le Réel, le symbolique, l'imaginaire)とは、主にジャック・ラカンの精神分析理論で用いられる、人間にとっての世界の在り方ならびに分類。1974年から1975年にかけてのセミネール「R.S.I.」に詳述され、シェーマRSI(schéma RSI)と概括され、RSIと略称される。

想像界とは、たとえば「日常」「平和」「不幸」といった、人であれば誰しも漠然とイメージできるけれども、その正確な描写となると大変な労力を要するような、言語に縛られている世界であり、なおかつわれわれが頭で思っているものをいう。

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そうたいせいりろん:相対性理論

相対性理論(そうたいせいりろん, 独: Relativitätstheorie)または相対論(英: relativity)は、1905年に発表された特殊相対性理論と1916年に発表された一般相対性理論のこと。 

両者はいずれもアルベルト・アインシュタインの創始した理論で、互いに、等速運動する座標系の間では物理学の法則が不変な形を保つという原理(相対性原理)と、光速度不変の原理を仮定したときの物体の運動を記述する。前者は慣性系についてのみ記述し、後者は加速運動する系や重力場の効果を含めて一般化した理論である。

相対性理論

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たいきゃくしんけいしょう:退却神経症

退却神経症の典型な症例と治療

退却神経症の典型的な症例
・苦労の経験に乏しい
・高い生活水準や体面は保ちたいという願望やプライドが強い
・あたりが柔かく、そつがなく、自分を押し出しすぎて嫌味を与えるようなことは
しない
・身についた高い教養水準に固執
・いったい入院すると比較的短期間によくなり、模範患者になる
・復職の時期が問題になってくると、再び1日中横になったままの状態に逆もどり
したり、出勤拒否的になる
(例えば会社へ挨拶に行くのを1日伸ばしにのばしたり、会社の玄関にどうしても
入る事ができず、近くの喫茶店に上司を呼び出したりといったことがおこる)
・基本的には(内因性)うつ病だが、性格、環境、時代の影響などのために
病像が修飾されたもの
・純粋の退却神経症と比べると、良くなったり悪くなったりの波があり、
抗うつ剤が一時的に効くことがある
・不眠や日内変動がある

治療について

・カウンセリングを受ける事・・・治療にあたっては、うつ病との違いに留意し、抗うつ薬の長期投薬で改善が見られない場合などは、心理療法(カウンセリング)も取り入れ、生き方や考え方などの変化を促すなどを試みる
・自分の「無関心」と闘うこと・・・社会的存在であること、他人との関わりを意識すること
・睡眠リズムの乱れに注意すること・・・特に朝の気分をバロメーターにする
・頑張りすぎないこと・・・調子の良い時に頑張りすぎて疲労がたまり、睡眠リズムを乱して退却してしまうきっかけになることもある
・物事を楽しむ力を大切にすること
・几帳面はほどほどにすること

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たいしょうかんけいろん:対象関係論

対象関係論(たいしょうかんけいろん)は精神分析的精神医学の一方法論である。フロイトの理論を基に、メラニー・クラインらが児童や精神病性疾患の精神分析に取り組む中で、新しいやり方として発展した。

概要

概ね「ヒト」を意味することの多い対象、つまり自分以外の存在との関係性の持ち方に焦点が当てられる。この関係性の持ち方には外的なもの(現実的なもの)と内的なもの(個人の心の中のもの)とのずれがあり、このずれを本人がどのように体験しているかを実際の治療場面では扱う。

フロイトの精神分析においては治療は無意識やリビドー(性欲)の抑圧などに主眼をおき、治療者がそれに解釈を与えることによって治療が成り立つとしていた。対象関係論では対象関係が問題の中枢であり、治療者と被治療者の間に何が起こっているのかについて詳しくとらえる事が治療上重要とされている。

理論

対象関係論においては0歳から2、3歳までの非常に早い幼児期の母子関係を研究するのが中心となっている。子供は母親を最初は「良い乳房」と「悪い乳房」に分離して認識しており、それは部分対象と呼ばれる。その後に発達するに従って子供は母親を「良い乳房と悪い乳房の統合されたもの」として認識出来るようになり、それは全体対象と呼ばれる。

対象関係論

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たいしょうこうじょうせい:対象恒常性

25~36ヵ月 個体化期

母親とは「別個の存在」としての「独自の」自我機能が確立して行きます。これによって、自分は自分なんだという自我同一性が出来上がります。これが達成されないと、自分がいったい何者のなのか分からないような、不確実な自己とともに、不確実な現実をさまようことになります。

いままで「良い」と「悪い」に分裂したままで、断片化していたものが、このころになると次第に統合されてゆきます。これによって、一人の人を、「良い」面も「悪い」面も併せ持った人として理解できるようになり、その人の悪い面も含めて、その人の全体的な人格との関係を築くことが出来るようになります。もし、この統合が不十分で分裂したままですと、その人が「良い」状態の時は「良い」関係が持てるのに、少しでもその人の「悪い」面を見つけたりすると、まるで別人になったかのような激しい憎しみを向けたりします。「良い」と「悪い」の中間が無いので、感情や価値観が極端から極端へと激しく揺れ動いたりします。

この時期には同時に対象恒常性が確立します。対象恒常性とは、「良い」母親のイメージが心の中に常に存在しているということです。母親がいなくても、心の中に定着した良い母親が代わりをしてくれるので、困難な問題に直面しても一人で対処できるようになります。「良い」対象と関係を持つようになり、これがさらに自己の成長を助けます。自分で自分を助けたり育てたりする能力が出来たと言えるでしょう。この対象恒常性の確立が不充分な場合、自分で自分を「良い」方向に導くことが出来ません。自分で自分を見捨てたり、破滅願望を抱いたりして、自分にとって「悪い」方向に進んだりします。

この個体化期を通して、人生の様々な問題を乗り越えなければならないときに必要となる、心の基礎が出来上がります。しかし、境界例の人は強い見捨てられ不安によって、この段階でも様々な問題を抱えることとなり、心の基礎が未完成のまま、人生の航海へと旅立って行くことになります。そして、思春期になって精神的な自立が求められるころになると、境界例の症状となって表面化します。

これらの自我同一性や対象恒常性の確立の失敗の背後には、強い見捨てられ不安が潜んでいます。ですから、回復のためには見捨てられ不安を徹底的に洗い出して直面化し、見捨てられ不安を解消する必要があります。そして、もう一度この「個体化期」をやり直さなければなりません。

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たいじのせいちょう:胎児の成長

お腹の赤ちゃん
胎児の成長過程

妊娠初期

0~3週
1ヶ月
・1週目までは、まだ着床していない。
(2週頃に排卵し受精。3週頃に着床する。)
・2~3週でやっと胎芽の時期
・形はタツノオトシゴのよう。
体重は約1g、身長約1cm
・母体:子宮の大きさは変わらない(鶏卵くらいの大きさ)

4~7週
2ヶ月
・まだ胎芽の時期
・胎盤が出来始め、母体との繋がりがしっかりしてくる。
・頭と胴体の区別が出来、
手足目鼻口や、内臓、脳などが作り始められる。
・7週の終わりで体重約4g、身長約2.5cm
・母体:子宮はガチョウの卵ほどになる。

8~11週
3ヶ月
・胎児期に入る。
・内臓、中枢神経の発達が盛ん。
肝臓が出来、排泄を行う。
・外性器が形作られ、男女の区別が出来、
3等身になってくる。
・へその緒が長くなり、胎児は羊水の中で動き始める。
・体重約20g、身長約8cm
・母体:子宮は握りこぶし大になる。
お腹はまだ目立たない。

12~15週
4ヶ月
・胎盤の完成
・内蔵がほぼ完成し、活発に動く。
・人間らしい体になり、手足が少しずつ動き始める。
・超音波ドプラー法で心音が聞ける。
・超音波診断法で男女の区別がつく。
・頭部はピンポン玉くらい。
・重約120g、身長約17cm
・母体:子宮は新生児の頭程度の大きさになる。
基礎体温が低温期に入る。

妊娠中期

16~19週
5ヶ月
・髪の毛、うぶ毛、爪が生える。
・心臓の動きが活発になり、
神経、骨、筋肉などの発達が進む。
・胎児の頭は、鶏卵ほどの大きさで、
体重約300g、身長約23cm
・母体:子宮は胎児の頭大。

20~23週
6ヶ月
・まゆ、まつ毛が生え、
顔がはっきりしてくる。
・皮膚の表面に胎脂が付き始める。
・聴覚が発達し、外の音も聞いているらしい。
・体重約650g、身長約30cm
・母体:下腹部が大きくなる。
胎動が感じられるようになる。

24~27週
7ヶ月
・脳が発達する。
・外性器が完成する。
・まぶたが上下に分かれ、
鼻の穴が通る。
・皮膚はまだシワだらけ。
・体重約1000g、身長約35cm
・母体:おなか全体が大きくなる。

妊娠後期

28~31週
8ヶ月
・筋肉や内臓器官が充実してきて、
からだ全体がしっかりしてくる。
・神経が活発になり、
外の音や光に反応する。
・体重約1700g、身長約40cm
・母体:妊娠線が出始める。

32~35週
9ヶ月
・皮下脂肪がつき、丸みが出る。
・シワが伸び、肌もピンク色になる。
・髪の毛が2cmくらいになる。
・肺の呼吸機能が完成。
・内蔵機能がほぼ完成
・体重約2500g、身長約45cm
・母体:腹部がせり出す。
子宮はみぞおちの直ぐ下まで上がって来る。

36~39週
10ヶ月
・4頭身になり、
母体をいつ出ても大丈夫なほどに
内臓や器官が十分に発達。
・骨盤内に頭が入り、胎動が少なくなる。
・体重約3200g、身長約50cm

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たなとす:タナトス

タナトス(古希: Θάνατος, Tanatos, Thanatos)は ギリシア神話に登場する、死そのものを神格化した神。

タナトス

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だいのうひしつ:大脳皮質

大脳皮質(だいのうひしつ、Cerebral cortex)は大脳の表面に広がる、神経細胞の灰白質の薄い層。その厚さは場所によって違うが、1.5~4.0mmほど。大脳基底核と呼ばれる灰白質の周りを覆っている。知覚、随意運動、思考、推理、記憶など、脳の高次機能を司る。神経細胞は規則正しい層構造をなして整然と並んでいる。両生類から見られる古皮質と、哺乳類で出現する新皮質がある。個体発生の初期には古皮質が作られ、後に新皮質が作られる。アルツハイマー病ではβアミロイドの沈着による斑が観察される。

大脳皮質

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だんこんき:男根期

男根期(だんこんき、独: phallischen / ödipalen Phase、英: Phallic stage)は、ジークムント・フロイトが主張する5つの性的発達段階(独: Triebtheorie、英: :Psychosexual development、リビドー発達段階)うちの1つで、肛門期に次いで3番目に表れる。女児に対応する場合は性器期と言い換えられる。ラテン語ではファロスは陽根=勃起した男根を指し、性的な目覚めを意味する。

フロイトによればこの時期の小児性欲の中心は性器である。子供は自分の器官の、性器としての役割を知り(精通がある、自慰をする、など)男女の性的違いに気づいていく。したがって、男児と女児では発達に相違がある。時期については諸説あるがおおむね3歳から6歳頃までとされる。またこの時期にエディプス・コンプレックス(エディプス・葛藤)が形成される(なおこの項目の詳細についてはエディプス・コンプレックスを参照のこと)。

外性器を持つ男児と内性器を持つ女児とでは、この時期の生育が与える後天的な性格への影響には差異があるとされる。女児は男根が無いことに対する違和感を覚え、男児は男根の勃起により性差を自覚する。そうした自覚から性的好奇心に目覚め、お医者さんごっこなどの行為も見られる。女児には精通のようなダイナミックな性機能の発現が初潮まで無いこと、性器の勃起の自覚が女児より男児に顕著なため、女児に限って性的な快楽に目覚めることがこの性器期への移行とされることもある。が、フロイトの研究は男児に偏っていたため、女児の性的発達に関しては研究が深まってはいない。近年では小児が自分の性器の性器としての役割に興味を持ち始める時期を性器期と見なすこともあるが、性教育の早期化により自覚的に自らの性器への興味をもつ本来の意味の男根期(性器期)という発達段階の存在については個人差、地域差が見られる。

男根期

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ちょうじが:超自我

超自我は上の二つの層をまたいだ機能で、ルール、道徳観、倫理感、自己の規制、理想を自我に伝える機能を持つ。厳密には意識と無意識の両方に現れていて、超自我は意識される時も意識されない時もある。基本的に超自我は、親を見て、理想的な親像や親の倫理的な態度を内在化するものである。それ故に超自我は「幼少期における親の置き土産」とよく表現される。

超自我は自我の防衛を起こす基本的原因とされている。自我がそれ単独で防衛を行ったり抑圧をしたりするのは稀であるとフロイトにおいては考えられている。また超自我はエスの要求を伝える役目も持っており、エスと手を結んで自我を圧迫する事もある。超自我は親の心的像(イマーゴ)や倫理的な物を含んでおり、それ故に超自我は自我の進む方向性として(自我理想)、および自我を統制する裁判官として機能するものだと考えられている。

超自我は前頭葉のはたらきと関係があるとされ、現在でもそれは妥当と考えられる。

超自我

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ていおうせっかい:帝王切開

帝王切開とは?

「帝王切開」とは、お母さんか赤ちゃんのどちらかに問題が生じ、自然分娩が難しいと判断された場合に選択される出産方法です。お母さんの腹部と子宮を切開して、直接赤ちゃんを取り出します。

日本で「帝王切開」により出産した人は、2005年の統計では、総出産数106万人のうち17%にあたる約18万4千人と推定されています。つまり妊婦さんの6人に1人が帝王切開により出産していることになります。また、出産数自体は減少しているにもかかわらず、帝王切開による出産は過去20年間で約2倍に増えています。理由として、赤ちゃんの安全を重視する様になったことや医療技術の進歩により安全な手術が可能となってきたことがあげられます。

帝王切開の種類には、以下の2つがあります。どちらも医師が必要と判断して行われます。

●選択(予定)帝王切開
超音波などの検査方法の進歩によって、お腹の赤ちゃんの様子や、お母さんの健康状態が詳しくわかるようになりました。赤ちゃんの成長にもよりますが、通常は36~37週の検診結果をもとに自然分娩が難しいと判断されると帝王切開が選ばれ、38週ごろに手術が行われます。

●緊急帝王切開
赤ちゃんあるいはお母さんの体に何か問題が起き、急いで赤ちゃんを取り出す必要がある場合に行われます。お産の途中や出産直前に手術が決まり、お母さんやご家族の方に同意を得て、迅速に行なわれます。

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てれんばっは:テレンバッハ

テレンバッハ,H.
1914‐1994。1914年ドイツのケルンに生れる。フライブルク、ケーニヒスベルク、ミュンヘンの各大学で医学と哲学を学ぶ。フライブルクでの哲学の師はハイデッガーであった。医学者としては最初神経学を専攻、ミュンヘン大学で教授資格を得、1956年にハイデルベルク大学に移ってから精神病理学に転じた。1979年まで同大学医学部教授。

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どなるど・うぃにこっと:ドナルド・ウィニコット

ドナルド・ウィニコット(Donald Woods Winnicott、1896年4月7日-1971年1月28日)は、イギリスの小児科医で精神分析家。イングランドのデヴォン州プリマスの中流階級のメソジストの信仰を持つ家庭に生まれる。両親は、サー・フレデリック(商人)とエリザベスマーサ・(ウッド)・ウィニコット。1923年アリス・テーラーと結婚したが、1951年に離婚。1951年に精神科ソーシャルワーカーで精神分析家のエルシー・クララ・ニモ(愛称"クララ")・ブリテンと再婚した。

子供時代をプリマスで過ごしたウィニコットは、著名で影響力の大きな精神分析家としては、波風立たない子供時代を過ごした数少ない人物の1人である。医師になることを決心した後、彼はケンブリッジ大学で学ぶ傍ら、ジーザスカレッジのリーズスクールで医学を学び始める。 第二次世界大戦の間は、イギリスの駆逐艦に見習い軍医として勤務、これが彼にとっては学業の中休みとなった。彼は医学部の課程を1920年に終え、1923年、アリス・テーラーと最初の結婚をした同じ年、ロンドンのパディントン子供病院に内科医としてのポストを得て、ここで彼は40年間小児科医、そして小児精神科医として勤務する。

ウィニコットは、たちまちアンナ・フロイトの後継者が、ジークムント・フロイトの慎の知的遺産に相続者と呼ばれる資格を巡ってメラニー・クラインら論争を重ねる中でめきめきと頭角を現していった。第二次世界大戦の終わり頃、精神療法の分野で3グループ前後の親密なグループが形成されてきた。フロイト派、クライン派、そしてウィニコットが属した中間派である。

彼の経歴の中には、クラインやアンナ・フロイトに留まらず、ジェームズ・ストレイチー、R・D・レインのようなブルームズベリー・グループのメンバーやパキスタンからの亡命者で非常に論議を喚び起こした精神分析家マサド・カーンのような数多くの著名な人物が含まれている。

ウィニコットは、精神的に障害を持った子供やその母親を診る中で得た経験を元に、その後非常に大きな影響を与えた概念のいくつかを考え出してきた。たとえば、精神療法にとって決定的なものとなった「支持的な環境」(holding environment)、「移行対象」(transitional object)、それから母親ならほとんど誰でも知っているのではないかと思われるほどになった「安心感を与える毛布」(security blanket)などがそれである。彼は対象関係理論にも大きな影響を及ぼし、特に1951年のエッセイ「移行対象と移行現象」では、子供がストレスの掛かった中で不安を免れるために拠り所とする馴染みの大切にしている対象に焦点を当てて議論している。

彼の理論的な執筆は、共感、想像力、さらに常に彼の著作の支持者であった哲学者マーサ・ヌスバウムの言葉によれば、「2人の不完全な人たちの間の愛を構築する高邁で特殊な交わり」を強調した。この最も重要な例が、「ほどほどに良い子育て」(good enough mothering)である。明らかに完璧とはいえないお母さんが、自分の子供がまずまず正常に育っていくことができるためには、「程ほどによい」(good enough)子育ての仕事をなすに尽きるというのである。講演などでしばしば発揮された独特のユーモアと人間愛を織り交ぜた表現である。

彼は1971年、一連の心臓発作の末に亡くなり、ロンドンで葬られた。

ドナルド・ウィニコット

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なるししずむ:ナルシシズム

ナルシシズム(英語 narcissism)、ナルシシスム(フランス語 narcissisme)(自己愛)とは、防衛機構の一種である。自己の容貌や肉体に異常なまでの愛着を感じ、自分自身を性的な対象とみなす状態をいう。ナルシシズムを呈する人をナルシシスト (narcissist) という。

ナルシズム (narcism)、ナルシスム (narcisme)、 ナルシスタンティズム (narcistantism)、ナルシスト (narcist) と訛ることがあり、いくつかの言語ではこちらの形のほうが一般的である[要出典]。

日本では「うぬぼれ」「耽美」といったニュアンスで使われることが多い。 思春期から青年に見られる。

ナルシシズム

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ぬみのーぜ:ヌミノーゼ

オットーは『聖なるもの』(1917年、邦訳 岩波文庫)の中で、真・善・美の理想を求めるカント的理性宗教に対して、非合理的かつ直接的な経験こそが「聖なるもの」であると述べた。これを、ラテン語で「神威」を意味する"numen"から取った"das Numinose"という造語で規定した。神への信仰心、超自然現象、聖なるもの、宗教上神聖なものおよび、先験的なものに触れることで沸き起こる感情のことを指す。 ヌミノース体験の特徴として以下のような点が挙げられる。

宗教体験により原始的な感情が沸き立つものである
概念の把握が不可能で説明し難い
畏怖と魅惑という相反する感情を伴い、身体の内面から特殊な感情が沸き起こるものである
絶対他者の存在を感じさせ、人間が本来備えるプリミティブな感覚により直感するものである

ヌミノース

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ひすてりー:ヒステリー

ヒステリー(ドイツ語: Hysterie, 英語: hysteria, ギリシア語: ὑστερία (hystería))は、主に以下の意味で使われている。

かつての精神医学において、転換症状と解離症状を主とする精神疾患群を指していた語。
転じて、一般の人がヒステリーと言う場合、単に短気であることや、興奮して感情のコントロールができなくなる様子のことをさすことが多い。本来の意味とは無関係に使用される場合が多く、しばしば蔑視のニュアンスを含む。ヒスともいう(例:ヒスを起こす)。
また、社会集団に対して、社会的緊張状態のもとで通常の状態では論理的・倫理的に説明のつかないような行動を人々がとる集団パニック状態がみられることがあり、しばしば集団ヒステリー (mass hysteria) とよばれる。モラル・パニックも参照。
以下は精神医学用語として使われてきたヒステリーという語についての記述である。後述するように、現代の精神医学ではヒステリーの語は使われなくなっている。

ヒステリーは神経症の一型で、器質的なものではなく、機能的な疾病である。本症は心因性反応型で、外的の事情や刺激に対する不快感動の反応として精神的あるいは身体的反応が起こるのであるが、いわゆる神経衰弱様反応型のように抑制的でも内向的でもなく、感情が強調されていて理知的色彩が乏しく、神経衰弱型よりも症状が一般に粗大で激しいものが多い。

ヒステリーの語は、女性に特有の疾患との誤解から子宮に原因があると誤って信じられていたため、古典ギリシア語で「子宮」を意味する ὑυστέρα (hystéra) から名づけられた。19世紀後半にシャルコーの催眠術による治療を経て、フロイトにより精神分析的研究が行われ無意識への抑圧などの考察がなされた。その後しばらくヒステリーの治療は精神分析を主体としたものが主流であった。しかし1990年代より、精神疾患を原因で分類するのではなく症状で分類する方法が主体になり、1994年に発表された精神障害の診断と統計の手引き第四版(DSM-IV)では、この言葉は消失し、解離性障害と身体表現性障害に分類された。ICD10では、解離性[転換性]障害に分類される。この経緯については神経症と類似である。

このような経緯に加えて、「ヒステリー」が一般用語として雑多な意味に用いられていることから、現在の精神医学では基本的には「ヒステリー」という用語を使用していない。

かつてヒステリーに分類されていた精神疾患についての詳しい情報は、解離性障害、身体表現性障害の項を参照されたい。

ヒステリー

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ふぁるす:ファルス

Phallus
ギリシャ語で「ふくらんだもの」のこと。
男性の性器、男根を意味する言葉。特に勃起した状態を指す→ファルス (性)
なお発生学においては、男性の陰茎だけでなく女性の陰核も指す。
Farce
演劇・映画の用語。英語ではファース。→笑劇
詰め物料理→ファルス (料理)

ファルス

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ふりーどりひ・へるだーりん:フリードリヒ・ヘルダーリン

ヨハン・クリスティアン・フリードリヒ・ヘルダーリン (Johann Christian Friedrich Hölderlin, 1770年3月20日 - 1843年6月6日)は、ドイツの詩人、思想家である。ラウフェンに説教師の息子として生まれ、テュービンゲン大学で神学生としてヘーゲル、シェリングとともに哲学を学ぶ。卒業後は神職にはつかず各地で家庭教師をしながら詩作を行ない、書簡体小説『ヒュペーリオン』や多数の賛歌、頌歌を含む詩を執筆したが、30代で狂気に陥りその後人生の半分を塔の中で過ごした。

生前はロマン派からの評価を受けたものの大きな名声は得られなかったが、古代ギリシアへの傾倒から生まれた汎神論的な文学世界はロマン主義、象徴主義の詩人によって読み継がれ、またニーチェ、ハイデガーら思想家にも強い影響を与えた。

フリードリヒ・ヘルダーリン

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ぶんりこたいかろん:分離個体化理論

分離個体化の過程

時期 過程 特徴
0~1ヶ月 正常な自閉期 自己と他者の識別がなく、欲求が内部で全面的に満たされる。
2~5ヶ月 正常な共生期 内部と外部の識別が生じるが、母親とは全能的な一体感を持つ。
5~9ヶ月 分離個体化期 分化期 母親を対象として認識し、母親を特定化する
9~15ヶ月   練習期 基地としての母親、母親から離れ近くを動き回り探索する
15~24ヶ月   再接近期 母親を別の存在として認識し、両価傾向を持つ
25~36ヶ月   再個体化期 情緒的対象恒常性が萌芽し、母親表象が統合化され、母親の不在に耐え母親から離れて他の子どもと遊ぶ

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ぺるそな:ペルソナ

ペルソナ(Persona)とはカール・グスタフ・ユングの概念。ペルソナという言葉は、元来古典劇において役者が用いた仮面のことであるが、ユングは人間の外的側面をペルソナと呼んだ。

ペルソナとは自己の外的側面。例えば、周囲に適応するあまり硬い仮面を被ってしまう場合、あるいは逆に仮面を被らないことにより自身や周囲を苦しめる場合などがあるが、これがペルソナである。逆に内界に対する側面は男性的側面をアニマ、女性的側面をアニムスとなづけた。

男性の場合にはペルソナは男らしさで表現される。しかし内的心象はこれとは対照的に女性的である場合があり、これがアニマである。逆に女性の場合ペルソナは女性的な側面で表現される。しかし、その場合逆に内的心象は男性である場合があり、これがアニムスである。ペルソナは夢の中では人格化されず、一般に衣装などの自分の外的側面で表されることが多い。

ペルソナは元型であるか
ペルソナが元型であるか否かについては、明記されていない。

河合隼雄の『ユング心理学入門』や鈴木晶の『フロイトからユングへ』(NHKライブラリー)など、同一概念と紹介しているものも少なくない。

林道義をはじめとし、ペルソナは元型ではないとする立場もある。その理由として、ユングは人類の集合的な心(例えば、社会的慣習や伝統的な精紳)から各人が切り取ったもの(個性化された人格=仮面)をペルソナと名づけたのであり、集合的無意識そのものを指すわけではないという解釈がある。

ペルソナ

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ほるむすとらーえ:ホルムスとラーエ

ホルムスとラーエはストレスの測定表を発表しているが、ストレスのスコアが高い上位十位を抜粋すると、配偶者との死別、離婚、(結婚生活の)別居、刑務所の服役、親族との死別、傷害または病気、結婚、仕事を首になる、(結婚の)和解、定年退職などと続く。結婚や和解などは、いわゆる四苦八苦ではないかもしれないが、ストレスの観点からはスコアが高い。これらも身近に体験することが少なくない。

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ぼうえいきのう:防衛機制

防衛機制(ぼうえいきせい)とは精神分析で用いられる用語であり、欲求不満などによって適応が出来ない状態に陥った時に、不安が動機となって行われる自我の再適応のメカニズムを指す。広義においては自我と超自我が共同して本能的衝動をコントロールする全ての操作を指す。

元々はジークムント・フロイトの娘、アンナ・フロイトが児童精神分析の研究の中で言い出したものである。彼女は、1939年からロンドンのハムステッドで戦争孤児院を開き、親から離れて、オランダ経由でロンドンに亡命してきた戦争孤児たち(キンダートランスポート)の心の治療に当たった。『自我と防衛機制』『ハムステッドにおける研究』(いずれも邦訳は、岩崎学術出版社)などを参照。

防衛機制は適応機制、不適応機制に対して使われる言い方である。機制はmechanism の訳である。また欲求不満に対し積極的に正面から取り組むことを合理的機制という。

抑圧
実現困難な欲求や苦痛な体験などを押さえ込んで忘れようとする。苦痛のために観念、感情、思考、空想、記憶を無意識的に意識から締め出そうとする心理作用。最も基本的な防衛機制。特に倫理的に禁止された欲求、もしくは性的な欲求が抑圧されると考えられている。

否認との違いは、否認は実現困難な欲求や苦痛な体験を一時的に忘れるだけで、他人に指摘されるとその事に気付く。しかし抑圧は意識より深い心の深部――前意識や無意識にまで押し込められてしまうので、基本的に思い出せなくなってしまう。思い出すには努力が必要であり、それほど悪い観念でなければ簡単に思い出せるが(前意識からの思い出し)、最も強い抑圧は無意識にまで押しやられているので、基本的に思い出すのは困難である。

例はない(無意識的に忘れてしまう)。

同一視(同一化)
自分にない名声や権威に自分を近づけることによって自分を高めようとする。他者の状況を自分のことのように思うこと。

例:映画や本の主人公と自分を重ねて見る。目指す大学の校章を付けて合格した気分になる。

例2:歌っているアイドルを見て、自分も歌を歌ってその歌手になりきる。

投影(投射)
自分の欠点を置き換えたり他人のせいにする。自己が抱いている他人に対しての不都合な感情を、相手が自分に対して抱いていると思うこと。

例:自分が相手を憎んでいるのではなく相手が自分を憎んでいると思いこむ。自分が浮気したいと思っているのを、恋人に浮気願望があると思うこと。

反動形成
抑圧されたものと正反対のものを意識にもっていること。無意識に抑圧した思いが意識にあがってこないように、本心と裏腹なことを言ったり、その思いと正反対の行動をとる。

例:父親への憎悪を抑圧した息子が意識的には父親に過大な愛情を抱くようにし、父親のために過度に献身的に尽くす。好きな異性に対して、思いを抑圧したために無関心を装ったり、逆に意地悪な態度に出る。

退行
耐え難い事態に直面したとき、子どものように振舞って自分を守ろうとする。以前の未熟な段階の行動に逆戻りしたり、未分化な思考や表現様式となること。一般的に子供的な依存状態全般を言う。

例:欲しい物をだだをこねて買ってもらおうとする。弟や妹が産まれると、母親の気を引くため年に似合わず赤ん坊のように振る舞う。ホームシックになった学生が、実家に帰ると親に甘える。

例2:夫が家に帰ってきたら突然私のひざの上に頭を乗せて耳かきを要求してきた。夫はネコのようにくるまって目を閉じた。

置き換え
欲求を本来のものとは別の対象に置き換えることで充足すること。

攻撃
他人のものを傷つけたりして欲求不満を解消しようとする。

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ぼせいはくだつ:母性剥奪

母性剥奪とは、発達段階(乳児期)においての用語で、発達初期に母親もしくは、養育者からの世話や情愛的刺激を喪失している状態のこと。

従来、スピッツらのホスピタリズム研究で指摘されていた母子分離・母子剥奪の問題は、50年代にボウルヴィ,Jにより、母親の養育態度における母性の喪失の問題に一般化・体系化されて、愛着理論とともに、母性神話の一端を担うものとなった。これは、発達における初期経験の重要さを支持するものであり、マザリング・ペアレンティングなど文化社会的に規定される育児態度でもあり、父親の役割も含めて多面的なアプローチが必要とされる問題になっている。

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ぽりあんなこうか:ポリアンナ効果

ポリアンナ効果(ポリアンナこうか、英: Pollyanna Effect)は、心理学用語のひとつ。1964年、アメリカ合衆国の心理学者チャールズ・E・オスグッドが、「書かれた言葉においては、ネガティブ(否定的、悲観的、後ろ向き)な言葉よりもポジティブ(肯定的、楽天的、前向き)な言葉の方が大きな影響を及ぼす」ことを説明するのに使った例え。

一般的には、

ポジティブな感情を伴った記憶ほど思い出し易く、ネガティブな感情を伴った記憶は思い出しにくい。
一般に人は肯定的な評価を好む。
(特にマスマーケティングにおいて)否定的評価は肯定的な評価に比べて集まりにくい。
などを指す。

これは、1913年にエレナ・ホグマン・ポーターが書いたベストセラー小説『少女パレアナ(Pollyanna)』および『パレアナの青春(Pollyanna Grows Up)』(テレビアニメ「愛少女ポリアンナ物語」でも知られる)の主人公ポリアンナに由来して名付けられた。

ポリアンナ効果

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ぽりあんなしょうこうぐん:ポリアンナ症候群

ポリアンナ症候群(ポリアンナしょうこうぐん、英: Pollyanna syndrome)は、心的疾患のひとつ。ポリアンナイズム(Pollyannaism)とも。現実逃避の一種で、ポジティブシンキングの負の側面を表すもの。

1913年にエレナ・ホグマン・ポーターが書いたベストセラー小説『少女パレアナ(Pollyanna)』および『パレアナの青春(Pollyanna Grows Up)』(テレビアニメ「愛少女ポリアンナ物語」でも知られる)の主人公ポリアンナに由来して命名された。

一般的には、

「直面した問題の中に含まれる(微細な)良い部分だけを見て自己満足し、問題の解決にいたらないこと」
「常に現状より悪い状況を想定して、そうなっていないことに満足し、上を見ようとしないこと」
などを指す。
ポリアンナ症候群

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ぽーる・ヴぇるれえぬ:ポール・ヴェルレエヌ

ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)(1844年3月30日 - 1896年1月8日)は、フランスの詩人。ポール・ヴェルレーヌ、あるいは単にヴェルレーヌとも呼ばれる。ステファヌ・マラルメ、アルチュール・ランボーらとともに、象徴派といわれる。多彩に韻を踏んだ約540篇の詩の中に、絶唱とされる作品を含みながら、その人生は破滅的であった。

日本語訳では上田敏による「秋の日のヰ゛オロンのためいきの......」(落葉=秋の歌)、堀口大學による「秋風のヴィオロンの附節ながき啜泣......」(秋の歌)、「巷に雨の降るごとく......」などの訳詩で知られる。

ポール・ヴェルレエヌ

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まいける・らたー:マイケル・ラター

イギリスの精神医学者。1960年代後半、イギリスのモズレー病院のマイケル・ラターによって、自閉症は先天性の脳障害だという説が発表され、自閉症の学界はコペルニクス的転回を迎えることになった。現在でも自閉症の原因は諸説あるが、現在主流の説はラターの説が元となっている。

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まぞひずむ:マゾヒズム

マゾヒズム(英語: Masochism)とは、肉体的精神的苦痛を与えられたり、羞恥心や屈辱感を誘導されることによって性的快感を味わったり、そのような状況に自分が立たされることを想像することで性的興奮を得る性的嗜好の一つのタイプである。被虐性欲とも言う。極端な場合や世界保健機関のICDにおいては、精神疾患とも見なされ、この場合は性的倒錯(パラフィリア)となる。しかしながら近年デンマークにおいてはマゾヒストの人権に配慮してマゾヒズムは精神疾患とはみなされなくなった。ジル・ドゥルーズの批判にもかかわらず、ICDにおいてはサディズムとマゾヒズムは相関関係にあるという考えを背景にして両者は今なお「サドマゾヒズム(F 65.5)」という疾患名に包括されている。

なお、マゾヒズムという発音・表記はドイツ語と英語の混淆したものと推測される。発音は、英語ではマソキズム、ドイツ語(Masochismus)ではマゾヒスムスに近い。

マゾヒズム

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まーがれっと・まーらー:マーガレット・マーラー

マーガレット・S・マーラー、マーレルネー=シェーンベルゲル・マルギト(Margaret Scheonberger Mahler, Mahlernő Schoenberger Margit, 1897年5月10日 エーデンブルク(ショプロン) - 1985年10月2日)はハンガリーの医師、精神分析家、児童心理学者。発達心理学に関する多くの理論を発表した。

マーガレット・マーラー

Life History

西暦 年齢  

1897 0 5月10日 ハンガリーの Sopron にてユダヤ系ハンガリー人医師の二人きょうだいの長女として生まれる。4歳年下の妹 Suzanne。旧姓 Scheonberger。

1913 16 ブダペシュトのギムナジウムに通う。バリントの最初の妻アリス、妹のエミーと同級生。フェレンツィ、バリントとの親交始まる。

1916 19 ブダペシュト大学で美術史を専攻。彫刻を学ぶ。

1917 20 医学部入学。

1920 23 ミュンヘン大学、イエナ大学で小児科医としての訓練を受ける。ユダヤ人として迫害を受ける。

1921 24 ハイデルベルク大学で学ぶ。

1922 25 小児科医から精神科医への転向を考え始める。

1923 26 医師資格取得。

1926 29 ヘレーネ・ドイチュから教育分析を受け始めるが、キャンセルがたえず、ドイチュはマーラーを分析不可能と診断する。

1933 36 精神分析家資格取得。アウグスト・アイヒホルンより教育分析を、Robert Waelder Grete Bibring よりスーパービジョンを受ける。フェレンツィの死去によってショックを受ける。

1936 39 アナ・フロイトのセミナーで知り合った化学者のポール・マーラー Paul Mahler と結婚する。

1938 41 ニューヨークに移住。母親がアウシュビッツで死んだのを知った時、イーディス・ジェイコブソンの分析を受ける。

1944 47 父親が死亡。母親もアウシュビッツで死亡。イーディス・ジェイコブソンの分析を受ける。

1948 51 小児精神病の研究を始める。

1959 62 乳幼児研究。(-1963)

1975 78 「乳幼児の心理的誕生」

1985 88 死去。

Theory

分離個体化理論

 小児精神病患者の治療から。

 22人の母親の38人の乳幼児を週1、2回、10年に渡ってビデオ撮影し、縦断的に観察する。

Margaret Scheonberger Mahler

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みえりん:ミエリン

ミエリン(髄鞘)は神経細胞の軸策を取り囲んでいる物質であり、絶縁体の役割り(電気線の絶縁体、ビニールテープのようなもの)を果たしています。ミエリンは神経の電気信号が身体の他の部分へ伝わる速度を速めます。
ミエリンが失われると、この電気信号の伝わり方が遅くなったり、遮断されたりすることがあり、多くの神経症状をきたします。

電気信号の伝わり方
電気信号は神経に沿って伝わります。神経細胞には、軸策と呼ばれる電気信号を伝えるための神経線維(細長い突起)があります。この神経線維は長く、身体の離れた部分、たとえば脊髄と脚の筋肉の間で電気信号を伝えることができます。神経細胞によって、身体の別々の部分の間で情報が送られます。

ミエリンは電気信号の伝わりを速める
ほとんどの神経線維はミエリンと呼ばれる脂肪層で囲まれ、絶縁されています。この物質により電気信号を脱線しないで送ることができ、伝わる速度が速くなります。ミエリン層はもともと一定の間隔でわずかな隙間があいており、ランヴィエの絞輪といいます。

神経の電気信号は絞輪から絞輪へと飛ぶようにして伝わり(跳躍伝導)、神経線維の経路に沿って伝わるよりも速い速度(秒速100 m以上)で伝わります。

ミエリンが壊されると多様な症状をきたす
ミエリンが傷ついたり壊されたりすると、神経の電気信号は次第に遅くなり、またはまったく伝わらなくなります。電気信号は神経線維の経路に沿って伝わるようになり、絞輪から絞輪へ飛ぶようにして伝わる(跳躍伝導)場合と比べるとはるかに長い時間がかかります。 また、ミエリンが失われると神経の電気信号がショートしたり、伝達が遮断したりすることもあります。ミエリンが破壊されて失われることを脱髄といい、破壊された領域を病巣あるいは脱髄斑と呼びます。

神経の電気信号の伝わり方が病変で遅くなったり完全に遮断されたりすると様々な症状が起こり、神経系の機能に悪影響を及ぼします。

現れる症状としては、感覚障害、視力障害、運動障害、歩行障害、排尿障害などがあります。

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むいしきのいしきか:無意識の意識化

無意識の意識化はどうやってするんですか。

例えば、夢の場合を考えてみると解りやすいのではないでしょうか。
夢のことはまだよくわかっていないが、ともかく睡眠時に無意識的なるものが映像(イマージュ)として表れる。

無意識的なるものとは、体調であったり、性本能であったり、ストレスであったり、そういった身体のうちにひそむものを言うわけだが、それが原因として睡眠時に映像として表れたのをふつう夢と呼んでいます。

夢はほとんど朝起きると忘れてしまうが、それでも時にはまざまざと憶えていることもある。
そして、この映像化されて憶えているということが、夢の場合における無意識の意識化と言えるのではないだろうか。

また、芸術の創作過程を考えてみるのもわかりやすいかもしれない。
才能とは情緒だと言われています。

情緒とは、無意識のうちから流れでてくる「いのちのメロディー」とでも言ったらいいのか。
その「いのちのメロディー(情緒)」を芸術家は意識に捉え表現するわけです。
小説家は言語でもって、音楽家は楽譜でもって、画家は色彩でもって。
ともかく、無意識とは映像や言葉や楽譜や色彩にいまだなる以前の「いのち」とみなしていい。
その自分のうちの「いのち」が「いのち」の方から現れてくる。そして、それを自覚する。
そこに、無意識の意識化がなされていると言えましょう。
どこまでも、自分のうちから湧いてくる「いのち」ということが肝要です。

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むいしき:無意識

深層心理学理論と無意識

  • フロイトの抑圧する無意識

深層心理学の理論の代表とも言えるジークムント・フロイトの提唱した精神分析学では、無意識に抑圧の構造を仮定し、このような構造において、神経症が発症するとして、その治療法の理論を展開した。(批判:「抑圧する無意識」は実証できない)。

また、精神分析の理論の応用として、個人における「良心」、社会における「道徳」の起源を、無意識の抑圧構造の文化的な作用として説明した。例えばや一見偶発的に見える言い誤りに対し、本人は後に説明を試みる(合理化)が、客観的に辻褄の合わない場合も多々あるためそこに個人的な抑圧構造を見られるとした。これはユングの言語連想法にも受け継がれている。

  • ユングの自己実現の無意識

分析心理学を提唱したカール・グスタフ・ユングは、「自我である私」が「なにゆえ私である」のかを問うた。「私である意味」は、魂の完全性、円球的完全性の実現にあると考えた。無意識は、自我を自己(ゼルプスト)すなわち「神」へと高めて行く構造を持つと仮定した。(批判:「神へとみずからを高める無意識の構造」は実証できない。しかし、「ユングの基本理論」と「ユングの思想」は分けて考えねばならない。ユングの理論は反証可能性を持たず、現代的な範疇での科学としては、成り立たない)。

分析心理学は、「神話の意味」、「死と生の意味」などを思想的に解明するに有効であった。ユング自身は、科学理論として慎重に理論を構成したが、それは表層構造において、容易に、宗教オカルトに転用可能な理論であった。

 

 

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めらにーくらいん:メラニー・クライン

メラニー・クライン(Melanie Klein, 1882年3月30日 - 1960年9月22日)は、オーストリアのウィーン出身の精神分析家。児童分析を専門とする。 ガリチア出身のユダヤ人医師モーリッツ・ライツェス Moritz Reizes と、再婚相手であり、スロバキアのラビの家系である母親リブサ Libussa を両親に生まれる。

乳幼児期における良い乳房と悪い乳房の未統合によって精神的な問題が起こるとした。クライン学派と言うフロイトの無意識理論に注目する学派を作り出し、後に対象関係論と呼ばれる学派として台頭して、精神分析に大きな影響を与えた。児童分析には両親の参加は必要ないと主張して、アンナ・フロイトと論争を行った。

メラニー・クライン

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やまびこのげんり:山彦の原理

山に向って発した音が反射し、遅れて聞こえる現象。

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りびどー:リビドー

リビドー(羅: Libido)とは、日常的には性的欲望または性衝動と同義に用いられることが多々ある。これはジークムント・フロイトが「性的衝動を発動させる力」とする解釈を当時心理学で使用されていた用語Libidoにあてた[1]ことを継承したものである。一方で、カール・グスタフ・ユングは、すべての本能のエネルギーの本体のことをLibidoとした。二人が決別した原因は、リビドーの解釈の違いが大きいといわれる。

対義語はデストルドーと誤認される事もあるが、これはフロイト晩年の理論(「快楽原則の彼岸」)における独: Todestrieb(タナトス)の源泉であって、正確な対義語はない。フロイト自身はしばしば性的欲動の対義語として攻撃欲動という言葉を使っている。そのため精神分析の臨床においては、リビドーの正反対の対義語として攻撃性(アグレッション)という言葉がしばしば使用される。

精神分析学ではリビドーを、様々の欲求に変換可能な心的エネルギーであると定義している。リビドーはイドを源泉とする。性にまつわる物だけでなく、より正確には精神分析学では人間の性を非常にバラエティに富んだ物であり、暴力的な側面を持つ支配欲動やサディズムもリビドーの一つであると考えられている。これらが自我によって変換・中和化(アンナ・フロイトの言う防衛機制)される事で、例えば男根期の露出癖が名誉欲に変わるなど、社会適応性を獲得する。また支配欲動が自己に向かい厳格な超自我を形成して強い倫理観を獲得する事もある。この例で解る通りリビドーは超自我や自我にも備給されている(自我リビドー)。

根本的にはリビドーは生物学的理論に根拠を置いており、またフロイトの精神分析の臨床において最も頻繁に確認された欲動として理解された。リビドーの最初の認識はフロイトのヒステリー研究と夢分析によって導き出されており、その様相は彼の著作『ヒステリー研究』や『夢の解釈』などで明確に確認出来る。

簡潔に言えばリビドーはそれ自体非常に性的な性質を持つとして見られる一方で、全ての人間活動はこれの変形としてフロイトには理解されている。特に文化的活動や人間の道徳的防衛はリビドーの変形したもの、もしくはそのリビドーから身を守るために自我が無意識的に転換したものとして理解されている。

リビドー

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るね・すぴっつ:ルネ・スピッツ

ルネ・スピッツ(René Árpád Spitz、1887年-1974年1月29日)はハンガリー、スイスの精神分析医。ウィーンに生まれ、後に米国に移った。乳児の発達と母子関係についての研究に取り組んだ。

ルネ・スピッツ

精神分析学派のスピッツ(Spitz,R.)は、「3か月微笑」と「8か月不安」という乳児の反応を提唱しました。

「3か月微笑」は、生後3か月ごろの乳児が誰に対しても微笑む反応のことです。 これは、スピッツがお面をつけて生後3か月の乳児を正面からのぞいたり、顔を横に向けたりする中で見つけました。 「8か月不安」は、生後8か月くらいになる乳児が見知らぬ人に対して人見知りをする現象のことです。 スピッツは6~8か月ごろの乳児が急に人見知りをするようになる現象を見て、身近な人(母親など)と見知らぬ人の区別ができるようになった表れだと考えました。

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ろなるど・ふぇあべーん:ロナルド・フェアベーン

ウィリアム・ロナルド・ドッズ・フェアベーン(William Ronald Dodds Fairbairn、1889年 - 1964年)は、イギリスの精神分析者。

スキゾイド・パーソナリティの理解に先鞭を付けた学者として知られる。また「対象関係論」という言葉を初めて正式に使った人物でもある。

理論

主な業績は全て『人格の精神分析学的研究』という書物に収められている。

特に「リビドーの究極的な目的は対象である」という言葉からも分かる通り、それまでフロイトやメラニー・クラインによって理論の根幹を支える前提とされていたリビドーと攻撃性の概念を、生物的な本能的緊張の解放を第一の目的とするのではなく、対象を最初から求めるものとみなした。

そのためフェアベーンの理論を最も純粋な対象関係論と言うことができる。また彼においてはエス(イド)の存在は重要視されなくなっており、自我を基本とした対象関係を追究した理論を構築している。最終的にはフロイトの心的構造論を改定し、自我が分割されて、拒絶された対象と共に抑圧されるという独自の理論を提出している。

心的発達においては「未熟な乳幼児依存から成熟した依存へと席を譲っていくプロセスにある」と考えた。そのため古典的な精神分析学派である自我心理学や対象関係論の「依存から独立へ」の考え方とは正反対の考えを持っている学者としては、上記の様々な考えも含めて、精神分析学理論の中でも独創的であると言われている。

ロナルド・フェアベーン

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意味の意味 シェーマL

-ラカン諸テクストによる意味の意味、あるいは狂信と信仰を巡る試考-

構成
1 立論

2 シェーマL
 主に「セミネール」第2巻を参照し、ラカンの基本的ターム、主体、自我、対象、〈他者〉の四つ組を紹介する。

3 シニフィエ、意味作用、意味、並びにそれらとシニフィアンの関係
 主に「無意識における文字の審級、あるいはフロイト以後の理性」を参照し、これらのタームを導入する。

4 欲求、要求、欲望、そして欲動
 主に「フロイトの無意識における主体の壊乱と欲望の弁証法」を主に参照し、これらのタームならびに欲望の弁証法を導入する。

5 転移、分析家の現前、分析家の欲望
 主に「セミネール」第11巻を参照し、これらのタームを導入する。

6 問いの回帰、対象a
 対象aの概念を展開しつつ、問いへの回答の準備を行う。

7 精神病
 主に「セミネール」第3巻を参照しながら、精神病と神経症の関係から、立論において提出された問いへの暫定的回答を試みる。

8 信仰と狂信
 上の二者関係と、信仰と狂信の関わりを思考し、当初の問いにさらなる回答の展開を試みる。

9 結語


注:本文中の「É」は、Jacques Lacan: Écrit, Seuil, 1966 を示し、ページ番号もこれに準拠する。「01」等の表示は、別ファイルとなっている注を表す。「エクリ」収録のもののみ本文中で引用箇所を示し、他のものは注にまとめてある。特に指定のない論文名は、Écrit収録のものだが、通称で表記してある箇所もある。



1 立論 意味の意味

 極めてナイーヴな図式化から始めよう。
 世界を把握しようとする営みには、二つの極を持つ一つのラインを想定することができる。
 世界、あるいは「私」という存在に特別な「意味」を求め、それらを突き動かす「生命」等の力を認めようとする方向と、逆にこれを疎外し、構造という無機質で無時間的なものへと還元しようとする力に引き裂かれる、一つの対立軸である。
 一方にあるのは客観性であり、分析であり、可逆性であり、無意味である。「無機的」世界観と描写することもできる。
 今一つの極とは、主観性であり、総合であり、不可逆性(時間性)であり、意味である。これは「有機的」視点と言ってもよい。
 近代科学は、世界の認識から目的論的な意味を排除することによって成立したと言われる。我々は誰も、机の上から落ちるコップに、下方へと向かう目的が内在しているとは考えない。我々は一応、機械論的な世界観をもって生きていることになっている。このことが、世界の内部における因果律から目的を排除することにより、世界そのものの目的を保存する結果を陰画として持っていようとも
01、我々は少なくとも、機械論的な世界把握こそが「理性的」であり「客観的」であると、漠然と信じている。
 一方で、もし手に持ったコップを地面に落とした人が「重力のせいだ」と言ったとしたとしたら、これはある種の機知か、言い訳としてしかとらえられない。我々は物質の運動には目的も意味も見い出さないが、少なくとも人間や、擬人的に捉えられる動物に関しては、価値判断というものを保持している。正確には、「私と似たもの」には、何かしら意味によって構成された世界観を投影する。
 あるいはより世俗的な「人生観」を巡る語らいを援用し、次のような対立を描くこともできるだろう。人生には意味があるのか、はたまたないのか。目的があるのか、ないのか。この対立は、微視的に捉えられた行為一つ一つについての意味の有無と、相似的な関係にある。
 人生にいかなる意味も目的も見い出さない者は世俗語で「ニヒリスト」と呼ばれ、「非人間的」であるとされる。多くの人々は、「ニヒリスト」は「本当の自分」を隠して生きる欺瞞的人物であると捉える。あるいは彼は、単に「ないものはない」と主張している徹底的なリアリストであるかもしれないが、いずれにせよ、本当に一切の意味といったものを排除して日常生活を送っている者がいるのかは疑問である。意味や価値判断といったものは、簡単に世界から放り捨てられるほど、弱々しい根しかもたないものではない。
 他方、些細な出来事に過剰に意味を呼び込む者もまた、異常とみなされる。占いや世俗宗教のような価値体系を何にでも当てはめ、ちょっとしたシンクロニシティに大騒ぎをする者がいたとしたら、病人とは言わないまでも、「ちょっと変な人」という扱いを受けることは避けられない。
 言うまでもなく、我々が日常的に選んでいる道とは、これら両極の中庸にあるものである。「意味」を求める力、そして逆にこれを疎外しようとする力、両者の葛藤とバランスが「正常」な人間を形成している。
 我々は日常生活において、自然に世界に意味を認めている。あるいは、意味を意味として認識することすらない。要するに、少なくとも「世界は無意味」とは積極的に考えない。積極的に何らかの価値体系を導入していなかったとしても、意味一般を一切排除して生活するという事態は、想像し難い。
 しかし、これだけでは何一つ明らかにしたことにはならない。薄く世界に意味を求めながら、なおかつ「大きな意味」に人生のすべてを巻き込まれることのないスタンス。それが正確にはどういった姿勢を指しているのか、我々は分節していかなければならない。

 分かりやすい譬えを使おう。ラカンがその学位論文でも取り上げているパラノイアである。
 ラカンの言う所のパラノイアparanoïa--これを精神病理学における妄想型分裂病paranoyde typeと同一視することはもちろんできないが、少なくともそれを参照点として理解を容易にすることはできる--、その発症の初期において見られる症状に、個人的意味作用signification personnelleの出現というものがある。例えば、家の前に赤い車が駐車してある。それを見た途端、車がCIAのものであり、彼を誘拐しようとする者がおり、その企みは......といった意味付けが形成される。
 これらの意味が、動かしがたいストーリーとして秩序づけられ確立されるには、一定以上の時間が必要である。つまり、確固たる妄想形式を築くのは、意味付けの後のことではある。最初に「何か意味がある」という直観がある。
 このような現象を前にした時、何かに意味を見い出すということは、多かれ少なかれ、パラノイアにおける個人的意味作用に類似したものがあるのではないか、という疑念が起こってくる。つまり、我々が日常的に行っている、「世界に対して主観的な色をのせていく」という作業は、どこか既に狂気じみたものが含まれているのではないか、という不安である。
 我々の主観性が、本質的にパーソナルなものである以上、そこには客観的な確証がない。我々が世界把持において行っている世界の意味付けは、客観的なものではない。
 極端に言えば、もしかすると我々は、主観であることそれ自体において、既に狂い始めているのかもしれないのである。何であれ意味を見い出すということそのものが、狂気の始まりである、と考えられなくもないのだ。
 しかし一方で我々は、世界の諸現象に何らかの意味を見い出すという行為一般について、狂気として理解してはいない。むしろ、意味の発見は主体であることの条件である。世界に何ら意味を見い出さない主観性というのは、形容矛盾ですらある。

ただ主体のみが意味sensを了解comprendreすることができ、翻って、意味の現象のすべては主体を含意している。(É p102)

 ここに一連の葛藤が整理される。つまり、我々が主体である以上、意味sensの了解を避けることはできない。一方で、意味を了解してしまう、ということには、パラノイアにおける個人的意味作用の出現といった、非正常性の端緒がある。
 よって、我々が問うのは、「我々は世界に意味を認めてもよいのか」「意味を認めることが、いかなる形で『正常』な行為として認められるのか」という問題である。
 パラノイアにおける個人的意味作用の出現と、我々が日常的に行う世界の意味付け、世界に対する意味の導入の間には、何らかの差異があるはずである。そうでなければ、我々はすべてパラノイアであると言わざるを得なくなる。
 確かに、パスカルの警句にあるように、我々は「正常であるために十分に狂っている」。それでも、一般的な言葉づかいの中で、我々が意味を認める時、常にパラノイア的であるとは言い難い。
 「意味はいかなる形で正常に導入しうるのか、あるいは導入しえないのか」と整理しうる我々の問題は、すなわち意味の意味を問うことでもある。そしてこの問いの向こうには、「我々はいかにして『狂信者』であることなく、信仰者たりうるのか、あるいはあり得ないのか」という、深遠な淵が横たわっている。さらなる飛躍を許して頂くなら、これらの問いには、「私の意味」とでもいうべき、幼児的ではあるが致死的な疑問が連なっている。

 このようないささか子供じみた大きな問題設定に向き合う為には、相応に構造化された鋭利な剪定鋏が必要になる。ここで我々は、ジャック・ラカンの諸テクスト、諸概念を利用したい。そのために、まずラカンの基本的タームについて、簡単な整理を行う。この迂路を経た上で、我々は上記の問いに一定の回答を求めていこうと思う。
 おそらくはこの打回路自体が、意味の意味をたずねるという我々の問いに対するある種の回答であり、意味の意味とはまさに、問いに対して答えを求める運動それ自体と表裏一体であることを、示すことになるだろう。


2 シェーマL--意味の舞台における登場人物紹介

 シェーマLは、1954-55年のセミネール『フロイト理論と精神分析技法における自我』において初めて示された図式である。『エクリ』収録論文では、58年の「精神病のあらゆる可能な治療に対する予備的問題」に、簡略化した形で登場している。ただその示す所は、既に48年の「精神分析における攻撃性」にも参照点を持つ。いずれにせよこのシェーマは、ラカンの最も基本的理論である「鏡像段階論」をよく映し出したものである。
 このシェーマについては、既に多くの論者が無数の語りを展開しており、今さら何も加えるべき言葉はないかもしれない。
 しかし、ラカンのテクストを扱うという選択自体を一つの問題とする我々としては、その登場人物がよく描写されたこのシェーマを、我々なりに咀嚼することによって、本論の端緒としたい。

 左上にSがある。これはフロイトの第二局所論
02におけるEsでもあり、またsujetのSでもある。それは「分析的主体」であり「全体性としての主体」ではない。この主体は、「自分が何を言っているのか知らず」「自分が何であるのかを知らない」03
 Sとは、「出生時の特異な未熟性」(É p96)によって特徴付けられる、言葉を話せないinfant乳児と考えてよいだろう。この乳児は、自分の全体性を知らず、ただバラバラの部分欲動pulsion partinelleによって突き動かされるだけの、寸断された身体corps morceléである。子宮という楽園から追放された乳児は、ただ襲い来る欲動に翻弄されるままの、己を知らない肉片の集まりである。いや、集まりとしての統合すら、彼はこの時点では持っていない。
 このSに対し、右下隅からA、すなわち大文字の他者が語りかける。大文字の他者とは、上のような未熟な幼時にとっての大人達、大人達の交わす言葉の雲と言えるだろう04
 この語りかけは、しかし、「ランガージュの壁」によって阻まれる。aとa'によってひかれるラインがそれである。この壁は、文字どおり「言葉の壁」だと思えば、イメ-ジしやすい。乳児は言葉を解せないゆえに、大文字の他者のメッセージは彼には届かず、無意識となる。
 寸断されているSが、己の統一を得るのは、鏡像においてである。つまり、その身体的未熟に先行する形で与えられた視覚能力によって、鏡の中のイメージとして、己の統一像を獲得するのである。これが右上のa'である。
 そこから鏡のこちら側にあるものとしてSが想定する想像的自己像が、aとなる。この位置には、後に自我moiを示すmの文字が配置されるのが一般的になる。逆に言えば、自我は鏡像から推測されるものにすぎない。つまり自我とは、初めにある統一でも、自我心理学の主張するような分析によって強化されるべき砦でもなく、想像的な虚像にすぎないのである。
 これがラカンのいわゆる「鏡像段階論」の概説である。一般に乳児は、六ヶ月から十八ヶ月の間にこの段階を経験すると言われている。しかしもちろん、この「段階」は、実際の発達論的段階ではなく、論理的想定物と捕らえるべきである。それは、フロイトおよびアブラハムによる「口唇期」「肛門期」等の一見発達論的タームが、単に通時的段階として理解されるべきでないのと等しい。
 また言うまでもなく、この鏡とは、物理的な鏡である必要はない。Sの発見する自己像a'はAと同じ右側に配置されているが、これはつまり、a'がAの中に、つまり大文字の他者の語らいdisucoursの中に発見される、ということである。自己像とは、必ずしも物理的光学的像ではなく、大人たちの語らいの中で語られているものとしての「己のイメージ」のことである。
 「もし主体が自分が何を言っているのか知っているとするならば、主体はこんな場所にはおらず、シェーマの右下の方にいるはずである」とラカンは言う。つまり、主体が何であるのか知っているのは大文字の他者である、ということである。この事実は、乳児が何者であるか知っているのは、乳児本人ではなく周囲の大人達である、という身近な事実を想起すればわかりやすい。
 Sはこの語らいの中の像a'に同一化する。「〈私〉の機能を形成するものとしての鏡像段階」において、ラカンはこれを「一つの同一化une idéntification」であり、「鏡像段階は、その内的衝拍が不十分さから先取anticipationへと沈澱する一つのドラマ」(É p97)という。つまり人間は、己を内的に把握する以前に、先取りとして、「外在性において」(É p95)自己イメージを獲得するのである。
 しかし、これが「一つの同一化」と言われるのは、それによって獲得される理想自我je-idéalが、「二次的同一化の起源」(É p94)であるからである。どういうことか。
 主体は鏡像a'において自己像を見い出し、自我を獲得するが、厳密にいって、鏡像と自我は同一ではない。この両者は「想像的関係」すなわちイメージの力によって糊付けされているだけだ。つまり、想像的に同一化されてはいるが、同じものではない。
 我々は日常において、鏡の中の像と自己自身の像と考えて疑わない。そこに不安を覚えることも健常者においてはあり得ない。しかしこれが可能となるために、我々はもう一つのステップを既に踏んでいるはずなのである。そのステップとはつまり、「両者の間に鏡がある」ことを認めることである。
 もし自我の形成が、単に想像的次元、対象的次元だけにおいて行われるとしたら、それは「私かお前か」という二者択一の鏡地獄の陥ってしまうだろう。これは「想像的揺れ」と呼ばれる。

もし外に知覚された対象がそれ自身のまとまりを持つなら、それはそれを見る人間を緊張状態に置く。なぜなら、この人間は、自分自身を欲望として、満たされない欲望として知覚することになるからである。逆に、人間が自分自身のまとまりを得るときには、翻って世界が破壊され、その意味を失い、疎外され、不調和な様相の元に表れることになる05

 これは「私があるとしたらお前はいない、お前がいるとしたら私はいない」という抜き差しならない双数=決闘duel関係である。「狂人とはまさに、この想像的なものに純粋かつ単純に張り付いている者のこと」07と言われるように、これは合わせ鏡のようなパラノイア的状況である。自我は、「パラノイア的疎外」(É p98)の元に成り立つのである。
 この関係を仲裁するのが、大文字の他者Aの審級である。Aとは大人達の語らいの空間であり、「フロイトの無意識における主体の壊乱と欲望の弁証法」おいて「シニフィアンの宝庫」(É p806)と言われるように、象徴的場である。大文字の他者の仲裁とは、象徴的次元の導入であり、時間差の論理の介入である08
 a'とmが共存するために必要なのは何か。それは時間差である。つまり、「今はそれはないが、実はあるのだ」という、「『無い』がある」という次元によって、両者が共存できるようになるのである。象徴的なものにあって想像的なものでは表現できないこと、それはこの 「『無い』がある」というコトである09。我々は言語の導入によって、初めて何かが「無い」ということを表すことができるようになる。動物にできなくて、人間にできるもの、それは不在の存在を示すこと、すなわちreprésenterする働きである。「不在が言語を通じて現前となる」のである10
 ラカンは「対象を名付ける力が知覚そのものを構造化する」「人間が対象を何らかの一貫性において存続させるのは命名によってである」と言う。また、「語は(......)対象の時間的次元に対応する」とも言い換えている11
 これが象徴的同一化、自我理想の導入である。自我理想とは、理想自我、すなわち「理想的な自分」を、見ていてくれる視点である。しばしばそれは、鏡像の中で、幼児を抱き上げ見つめている親の視点として語られる。
 あるいは、次のように言うこともできるだろう。自我理想の導入とは、ある「無さ」に対する同一化、「無い」ポイントを自らの中に刻み込むことである、と。
 フロイトの有名なFort-Daにおいても、幼児が悦びを示したのは、対象の出現ではなく消失においてであった。それはつまり、ある「無さ」に対して主体が同一化した、ということである。
 乳児は、鏡の中の自己像に同一化するというよりはむしろ、鏡を見てそこから振り向いた時、視界から消失するものに同一化するのである。あるいは、消失そのものfadingに同一化する、と言ってもよい12
 それゆえ、実はこのシェーマLは、それ自体としては神話にすぎない。というのも、ここで示されている同一化のメカニズムが完遂されたとき、Sは既にそれ自体としてはあり得ず、疎外された形、つまりマテームS/によって表されるべきだからである。さらに、Aもまた、完全者としてはあり得ず、斜線をひかれたA/、「欠如あるもの」「他に欲望を持つもの」としてしか成立し得ない。これについては「欲望の弁証法」等のテクストを元に、後述する。
 フロイトが『文化における不安』において示した父殺しのドラマが、文化人類学的事実というよりは一つの神話であるように、さらに言えばエディプスコンプレクス自体がフロイトの神話である如く、鏡像段階はラカンの始源に想定される神話なのであり、遡及的にしか示すことのできない一つの構造である13。原光景は再体験されたものではなく、再構成されたものなのだ。
 
 とはいえ、この神話とシェーマの有効性は、改めて強調するまでもない。
 例えば、我々はこのシェーマを使って、端的に分析家と被分析者の関係を考えることができる。
 セミネールの編者であるジャック=アラン・ミレールも指摘していることだが、分析はmとa'の想像的関係ではなく、SとAの象徴的関係において行われなくてはならない14。つまり、分析家は患者にとって、彼の似姿semblableであり、同情し感情移入してくれる「人間」ではあってはならない。ヒステリーが親しい人間関係においてその症状を最も激化させることからもわかるように、このような関係は決して治療的効果を生み出さず、むしろ神経症を助長してしまうだろう。分析家は鏡像であってはならないのだ。
 あるべき分析家とは、鏡像ではなく、鏡そのもの、つまりAでなくてはならない。話しかけるのがいささか滑稽な程、甲斐のない鏡でなくてはならない。
 とはいえ、分析家は壁ではない。彼は一人の主体として想定される。しかもそれは、後述するように、「知っていると想定される主体」である。
 何を知っているのか。それは彼の症状の意味、まさに本論で我々が巡っている、「私の意味」である。やや結論を先取りする形になってしまうが、分析家はそれを持っていると、患者の背後において(寝椅子の後ろに)想定される。無意識の主体の想定と言ってもよい。
 分析家は鏡Aとして振舞うことにより、Sにその像を提供する。それは最も初めに主体から分離されたもの、主体がそれであることを諦めることによって主体として成立し得たもの、つまりラカンの用語に言う対象a objet aを映し出す。この鏡としての機能、象徴的機能においてこそ、分析は機能するのである。

 シェーマLをより単純化し、主体、対象、他者を図式化してみよう15

 患者がsujetの位置にいるとしたら、分析家はもちろん、Autreでなくてはならない。objetは文字通り対象であり、分析家はこのような「人間的」位置に立ってはならない。ここに来るのは、例えば話題の人物などである。
 ラカンがフロイトの文献のうち最も読むべきものの一つとして上げている『機知--その無意識との関係--』において、既に似た三角関係が示されている。フロイトは滑稽と機知を区別するものとして、第三項の導入をあげている。つまり、滑稽においては「私」と「対象である人物」の二人で十分であるが、機知においては、第三者、つまり他者がいなくてはならない、という。つまり「話す私」「ネタとしての対象」「笑ってくれる他者」という三項関係である16。対象はその場に現前しない。対象は単に表象représentationとしてある。一方、他者は現前se présenterしている。ちょうど落語において、客はse présenterしているが、ネタの中の登場人物はそこには居合わせないように。
 対象は鏡像に過ぎないが、他者は現前する。精神分析の分脈でいえば、「分析家の現前」である。分析家は、大文字の他者の役割を負って、文字どおりその場(セッション)に「居合わせるse présenter」17
 我々はさらに、ここから子供の「今日の一日報告」を連想したい。小学生ほどの年齢の子供が帰宅して親に対して行う、その日の出来事の「報告」である。子供はしばしば、帰宅するなり「お母さん、あのなぁ、今日なぁ、タカシ君ががなぁ......」等々と、その日の起こった事を一方的に「報告」する。この時、他者(母親)は現前しており、タカシ君は単に表象として話の中に登場するにすぎない。お母さんは大抵夕飯の支度中で、子供の話を真剣には聞いていない。「あらそう、ふぅん......」。ただ、まるで無視しているわけではなく、的を射たような射ていないようなコメントを返すこともある(解釈)。
 子供も、母親が全神経をかけて聞いているとは思っていないはずだ。もし母親がそういった態度を取れば(あるいは子供によってそう想定されれば)、子供は射すくめられたように語りを滞らせてしまうだろう。
 だからといって、子供は壁に語りかけているわけではない。両者の関係は、被分析者と分析家の関係に相当に類似している。前後関係こそ逆であるが、両者とも双方がほぼ同じ方向を向いていることも興味深い。
 お母さんは聞いていないようで聞いている。とはいえ、その関心の中心は目の前の料理であったり、ワイドショーの話題であったりする。これはちょうど「分析家の欲望」と言われるものに呼応する。

 「今日の一日報告」の譬えには、まだまだ分析との相似点が見出せるかも知れないが、敢えて展開は保留しておこう。
 というのも、この先に進むためには、転移の概念を導入しなければならないからである。それは本論の核心であるゆえに後に詳述を譲るとして、我々はここから、しばしの迂路へと入ろう。


3 シニフィエ、意味作用、意味、並びにそれらとシニフィアンの関係--意味の包囲

 ラカンのタームの中で、日本語の「意味」という語を訳語としたくなる語に、次の三つがある。すなわち、signifié, signification, sensである。さしあたって我々は、それぞれを、シニフィエ、意味作用、意味(あるいは意味=方向)と訳出しておこう。
 「意味の意味」を整理する過程として、この三つについて、ラカンの用語法を概説してみたい。そのためにはまず、シニフィアンsignifiantの概念の理解が必要になる。

 シニフィアンとは何か。この語は周知のように、ソシュールによってシニフィエとのカップルとして現代思想の中に姿を現した。その示す所は、いわゆる音素と概念の対応であり、そしてこの対応の恣意性に主意があったことは、改めて説くまでもないだろう。
 ラカンはソシュールからこのシニフィアンの概念を借りてくる。しかしその用法については、大きな隔たりがあると言わなければならない。
 ラカンは、「無意識における文字の審級、あるいはフロイト以後の理性」において、以下のようなユーモアをもって、シニフィアンの概念を簡潔に提示している。

 左の図では、arbreとういうシニフィアンに対し、そのイメージ(概念)が対応している。これが従来のシニフィアンとシニフィエの了解の仕方であった。音素には概念が一対一で対応しているが、木がarbreと呼ばれることに必然性はない、ということである。
 一方で、ラカンの言うシニフィアンとシニフィエの関係は、右の図のようなものである。ここに示されているのは、もちろん、よく見るトイレの二つの入り口である。左は男子用、右は女性用であるが、その扉の形状には何の差異もない。両者を分節しているのは、単にその上にかかげられたhommesとdamesというシニフィアンのみである。
 つまり、ラカンにおいて強調されているのは、シニフィアンとシニフィエの対応関係ではなく、シニフィアンとシニフィアンの差異なのである。

 この式は次のように読まれる。シニフィアンがシニフィエの上にあり、上のものは、その二つの段階を分轄している棒線に呼応している(É p497)

 この式では、分子の位置にシニフィアン、分母の位置にシニフィエが置かれている。重要なのは、両者を隔てている棒線barreである。ラカンのシニフィアンは、いかなる形でもシニフィエとは対応しない。ただシニフィアンとシニフィアンの関係だけがあるのである。

もう一つ別の意味作用に返送されないで成立するような意味作用は一つも存在しない(É p498)

 それゆえ、この式は、シニフィアンとシニフィエという仮構的位置関係を示しているとも言えるが、ある種のシニフィアンとシニフィアンの関係(隠喩--これについては後述)の教示でもある。

シニフィアンとシニフィアンの相関性のみが意味作用の探究全体の原基を供する(É p502)

 このシニフィアンは、「欲望の弁証法」において、「あるシニフィアンは、主体をもう一つのシニフィアンに向かって表象する」と定義される(É p819)。つまりシニフィアンとは、シニフィエを示すものではなく、それを印した主体を表象しているのである。
 別の場所でラカンのあげている譬えを借りるなら、砂浜に足跡があったとすれば、それは単に記号signeであり、「誰かに対して何かを示している」ものだが、もしその足跡を消した跡があるとすれば、それはシニフィアンである。この「消し跡」は、別のシニフィアン(つまり消された足跡)に向かって、消した主体(消えた主体)を表象している。この主体の消滅は、前述のfadingとも呼応する。つまり、主体は消え去ったものとしてしか成立し得ない、ということである。
 そのようなシニフィアンの連鎖があり、ただその関係からのみ意味作用が発生する。シニフィエとは、意味作用が生じる位階の名にすぎない。

 このメカニズムを、もう少し精緻に見ていこう。
 「文字の審級」では、上の図解に続いて、言語の基本的修辞法として、換喩と隠喩について語られる。
 換喩とは、語対語(mot à mot)の関係において成り立ち、フロイトの夢作業における「移動」に相当する機能であり、隣接性の原理に基づくものである。換喩によって、シニフィアンは「存在の欠如を対象関係の中に据えつけ」られる。換喩は語から語へと飛び水のように逃げ去っていく欲望désirの基体であり、そこにおいてはシニフィアンとシニフィエをまたぐ棒線は越えられず、つまり水平的関係だけがあり、新たな意味作用は生じない。
 一方、隠喩は、一語に代わる一語(Un mot pour un autre)の関係によって成り立ち、夢作業における「圧縮」に対応し、相似性の原理に支えられるものである。隠喩において、シニフィアンはシニフィアンに置き換えられ、垂直的に棒線が越えられ、意味作用が生じる。つまり、一つのシニフィアンがシニフィエの位置に滑り込むことによって、あるシニフィアンが別のシニフィアンを「意味するsignifier」する作用が生まれる。このシニフィアンの下に敷かれたシニフィエの位置とは、消失する主体の位置であるゆえ、隠喩における滑り込み作用は、主体の機能を示すと言ってもよい。

 この意味作用のメカニズムを、「欲望の弁証法」でのシェーマを使って別の角度から見直してみる。

 これは「欲望の弁証法」で順次提示される四つのグラフの一番基本的なものであり、隠喩の構造をよく表している。
 SからS'へ向かうラインは、シニフィアンの連鎖を示している。それが、ΔからS/へと逆方向に遡行するラインによって、「ひっかけられる」。それゆえに、このグラフの示すところは「マットのつまみle point de capiton」と呼ばれる。
 通時的に考えると、これは例えば、発話の文末決定性を表現しているとも言える。つまり、Δから伸びた矢印がシニフィアンの連鎖を横切る最初の点、そこでシニフィアンはひっかけられ、一つの区切りが入れられるのだが(句読点)、その点から遡行し、次の復路の点の意味が決定される。時間軸はSからS'の方向に走っているのだが、意味の作用は、その言い終わりから遡行して決定される、ということである。日本語における「文末の決定性」などを思い浮かべればわかりやすい。
 このポワン・ド・キャピトンによって、一つの隠喩が成立する。つまり、前のシニフィアンが後のシニフィアンのシニフィエの位置に滑り込むことにより、意味作用が生成する。そして元々シニフィエの位置にあったと想定される主体が、連鎖の外に放り出されると共に、引き裂かれた形で成立する。この想定は、事後的にしか行われ得ないゆえ、抹消されたものとしてしか、消え去りゆくものとしてしか、主体はあることができないのである。
 以上で、シニフィエと意味作用の関係を粗描できたかと思う。シニフィエとは仮構的な位置の名であり、概念やイメージ、物自体といった何かがあらかじめ有るわけではない。そして意味作用とは、シニフィアンがシニフィエの位置に滑り込むことによって発生する作用である。向井雅明は、これを「一つの文法的に正しい文には必ず成立する意味」と表現している
18

 それでは、残された意味=方向sensとは何か。同じ場所で向井はこれを「nonsens、ナンセンス、無意味な所に生じる意味」と表している。
 無意味の意味、このフレーズから、我々はフロイトの『機知』を想起しないではいられない。機知によって無意味の中から成立してくるような意味、これがsensである。それは意味作用の一つとも言えるし、あるいは意味作用の作用、意味作用のもたらす方向性とも言える。
 表面上無意味な意味にも、もちろん意味作用は成立している。だから、無意味であっても、少なくともそこには意味作用がある。ただしこの意味作用は、我々が日常語で言うところの「意味のない」ものである。そのような「意味のない」パロールから意味の飛び出す時、そこにsensがある。
 『機知』の中に、次のような機知の例がある。
 ある貧乏な男が、金持ちの知人に無心して、なんとか金を借りる。翌日、金持ちの男は、貧乏男が自分の貸した金でマヨネーズをかけた鮭を食べているのを目撃する。「なんだ、お前は私から金を借りておきながら、そんな贅沢をしているのか」と金持ち男はなじる。すると貧乏な男が答える。「金がない時はマヨネーズをかけた鮭なんか食べることはできないし、金があるときには食べてはいけないと言われる。それでは一体、いつ私はマヨネーズをかけた鮭を食べたらいいんですか?」と19
 このように、機知とは、それによって危機を脱する手管でもある。この逃げる方向、ナンセンスであることによって発生する方向が、意味=方向sensである。意味とは飛び出し、すり抜けであり、「脱出マジック」、主体のテレポーテーションであり、忍術である。

 ラカンは、Cogito ergo sumをもじって「私は私の存在しない所で考える。それゆえ、私は、私の考えない所に存在する」と言い、続けて「私が私の考えにもてあそばれる場所には、私は存在しない、私が考えると考えていない場所で、私がそうであるものについて考えている」(É p517)と言い換える。

この二つの面を持ったミステリーは、二つの事実に結ばれる。一つは、そこを通ると創造におけるいかなる「リアリズム」も換喩の効力をおびるアリバイ証明の次元においてのみ、真理が呼び起こされる、という事実である。今一つは、鍵が一つしかないのに、意味sensがその入り口をゆだねるのはただ隠喩の二重の屈曲部doubule coude de la métaphoreにおいてである、という事実である。(É p518)

 一つ目の事実では、まず、いかなる写実的リアリズムも、もの自体を示すのではなく、シニフィアンは水平的にズレていく、ということが言われる。指し示されるもの、それは常に逃げ去っていくシニフィアンにしかすぎず、もの自体は常に不在である。つまり「アリバイ(不在証明)」がある。この「何事も言えなさ」においてのみ、ただ「何事かを言える」、つまり真理の次元がありうるのである。
 二つ目の事実は、次のことを意味している。二重の屈曲部とはつまり、隠喩とはシニフィアンのシニフィアンによる代理でありながら、同時に両者は同じ次元にはない、ということである。つまり、シニフィアンとシニフィアンの等価性という一つの軸がある一方で、両者の位階の絶対的垂直的差異、つまりシニフィアンとシニフィエという絶対のズレという軸がある。隠喩の二重の屈曲部とは、シニフィアントとシニフィアンという水平的ラインと、シニフィアンとシニフィエという垂直的ラインが交わる、仮構的交点を示している。これは一つの隠喩という作用でありながら、二つの相矛盾する機能の交差でもある。
 シニフィアンは分節さえることによってのみシニフィアンであるのだから、その間には常に飛躍がある。そして、シニフィアンとシニフィエの間には、ただ隠喩によってのみ忍術的に飛び越えられる棒線が横たわっている。二重の意味で、二項の間には溝があり、ましてその交点など実体的にはあり得ない。
 しかしここに一つの鍵がある。つまり、隠喩である。隠喩とは意味作用の生成のメカニズムであるが、同時に意味=方向という不可能な忍術が可能になる唯一の点でもある。水平的飛躍と垂直的飛躍の交わる点という、不可能な点、「二重の屈曲部」「二重肘」のどちらにも合うはずもないのに(そもそも鍵穴がない)、両方に合う鍵である。無いはずの鍵穴のための唯一の鍵は、換喩的な水平運動の行き詰まった窮地において、主体を引き裂きテレポートさせる「脱出マジック」の鍵なのである。
 換喩的思考の存在しない場所に、私は存在する。思考対象としての私(énoncéのsujet)が存在する場所に、考える私、言表行為(énociation)の主体はいない。そこではない場所で、私は考えられている私について考えている。「そこと思えばここ、ここと思えばあそこ」、この忍術が隠喩であり、それによって可能になるもの、それが無意味の意味、意味=方向sensである。

隠喩は、意味sensが無意味non-sensの中から生じるまさにその場所において、位置付けられる(É p508)



4 欲求、要求、欲望そして欲動--弁証法的な、弁証法への迂路

 「欲望の弁証法」にもう少し留まることにしよう。これは、欲望を巡る一連のラカンのタームを整理し導入するための、弁証法的迂路である。
 

 前のグラフに続いて、上のグラフが提示される。Aは「シニフィアンの宝庫」であり、s(A)は、「意味作用がそこで完成品として構成される句読点」である(É p806)。つまり前述のように、Aの点においてひっかけられたシニフィアンの連鎖は、s(A)において一つの意味作用として結実する。これは一つの確言assertionである。この確言は、その確実性を、「それ自体は何も意味しないinsignifiantシニフィアンの構成の内に自らを先取することに向けなおされる」。つまり、初めにシニフィアンがある。それは単にシニフィアンであり、何かを予め意味しているわけではない。それが大文字の他者Aの場であり、先験的物質的構造である。シニフィアンが、文字通り何かをsignifierするということは、主体の消失的成立と同時的なのである(「シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する」)。
 ここにおいて、「主体のシニフィアンへの従属」が達成される。前のグラフでは終点にあったS/が、今度は始点に、つまり神話的始源におかれている。これが神話である限りで、つまり主体が一つの消失においてしか成り立たない限りにおいて、確言の確実性の根拠として主体が初めに存在する、ということは不可能である。主体は大文字の他者というシニフィアンの宝庫の中に疎外されることによってのみ、成立するのである。主体は、「数えられなくてはならないと同時に欠如の役割を演じなくてはならない」(É p807)。

これは遡行翻位(rétroversion)の効果である。これにより、主体は、各段階において、それが今しがたまでそうであったものになる。そしてただ前未来形によってのみ、つまりそれがそうあったことになるだろう、という形でのみ現れる(É p808)。

 そして、最初のグラフのS/に代わって終点に置かれているのは、I(A)自我理想である。つまり、象徴的同一化の審級である。それゆえ、この二番目のグラフは、大文字の他者の導入そのものを示しているとも言える。

 このグラフの導入に続いて、欲求besoin要求demande欲望désirというタームを巡る論が展開される。この三つの術語について、概説しておこう。
 例えば、「パンが食べたい」という欲求がある。欲求は対象を持つものであり、対象によって満たされるものである。動物的水準に属するとも言えるかもしれない。日常語において「欲求」「欲望」といった語から我々が連想するものには、ラカンのターム言えば「欲求」besoin(「欠乏」という訳もある)が相当する。
 しかし、もしも「パンが食べたい」という欲求がランガージュの次元に表れるとしたら、つまり「パンが食べたい」というパロールとして発言されるなら、既にこれは動物的生理的水準にはない。
 例えば子供が母親に向かって、「パンが食べたい」と叫ぶ。それは要求demandeとなる。要求は、発話された欲求とも言える。
 人間がその本質において言語に巻き込まれている以上、存在するのは要求からであり、動物的欲求といった生理的還元は、一つの遡行的神話にすぎないだろう。要求は発話され、想定される主体に向かって叫ばれる。要求は本質的に常に愛の要求である。「お母さん、パンを食べたいボクを見てよ!」。
 それでは、欲望désirとは何か。

 欲望は、要求が欲求から引き裂かれる余白margeにおいて形をとりはじめる。この余白は、その呼び掛けがただ大文字の他者に対してのみ非制約的でありうる要求が、欲求がそこにもたらす可能的欠如の形のもとに、普遍的満足はないということによって(不安と呼ばれるもの)、開くものである。この余白は、直線的なものであろうと、大文字の他者の気まぐれの象の足踏みによって覆われていないところが少しでもあると、その目眩を生じさせる。この気まぐれはしかし、大文字の他者の亡霊を導入する。それは主体からではなく、大文字の他者からであり、この大文字の他者にその要求が据えられる(今やこの馬鹿げた決まり文句を、きっぱりと、万人に対し、それ自身の場所へと戻される時かもしれない)。そして、この亡霊とともに、〈法〉によって手綱をとることbridageの必要性も、大文字の他者に据えられる。(É p814)

 欲求は大文字の他者の場、ランガージュの次元に表されることによって、要求となる。しかし、この時何かが取り残される。大文字の他者とは象徴的審級だが、要求の発せられる時、象徴化できなかった余白が残る。この不可能な辺境の場に向かうのが、欲望なのである。
 ラカンは、象徴化によって取り残される残余を現実界le réelと呼び、いわゆる「現実」すなわち現実性réalitéという想像的なものから厳しく区別するが、欲望はこの象徴の彼岸にほの見える現実界に、その対象と原因を持つ。
 この欲望dによって、グラフは上方に向かって、無意識に向かって展開する。グラフ上段は、「大文字の他者のディスクール」であるところの無意識の領域である(É p814)。無意識は、主体と大文字の他者の間にあって、「現に働いているen acteそれらの裂け目」(É p839)である。それは問いという形、あるいは時間的拍動として、現れる。

 Che vuoi?汝何を欲するか? すなわち、大文字の他者の欲望を探る問いが、大きなクェスチョン・マークとなって展開する。その先には、幻想fantasmのマテームS/◇aがある。aとは、対象a objet aを示すが、この対象aとは「欲望の対象にして原因」と言われる。
 aは、シェーマLにおいて鏡像として示された小文字の他者autreのaでもある。つまりそれは、主体がその成立において、振り向きざまに消え去るものとして自分から切り離した部分であり、主体そのものでもある。正確には、「今しがたまで、主体であったもの」である。主体は一つの欠如としてしかあり得ないのだから、その欠如に向かう不可能な欲望の果てには、飛び水のように逃げ続ける対象があるはずであり、この対象は、それ自体で存在するというよりは、欲望という欠如の現象の原因として遡及的に想定されるものである。これは主体成立の神話の想定に並行的である。対象aはこの始源において、主体の消失と永遠の滑り出しをスタートさせた、欲望の原因である。
 この対象aと抹消された主体S/が◇で結ばれているのが、幻想である。◇は疎外aliénationと分離séparationの運動を示すものとしてセミネール11巻や「無意識の位置」で詳述されているが、その詳説はここでは省こう。ここはひとまず、その両側にある二項が、錐によって結び付けられていると理解されたい。S/とaは同時に成立し、永遠の余白に向かって走り続ける欲望のゲームを始動させるのだから、我々の生きる世界はその両者の結びついた幻想によって完全に包囲されていると言えるだろう。

幻想はまさに、最初から抑圧されたものとして見い出される〈私〉の、そしてただ消失においてのみしか言表行為のそれとて示し得ない〈私〉の、「生地」(étoffe)である(É p816)。

 この幻想が、大文字の他者の欲望の問いという形でクェスチョン・マークの先端に位置付けられている。なぜなら、最初のグラフにあったように、主体は大文字の他者の場、ランガージュの場に疎外されることによって成立するものだからだ。この疎外において、主体から分離され、以後その欲望の原因として対象であり続けるのが、対象aである。
 最初のグラフにおいてΔによって表示されていた「始源の何か」は、大文字の他者の場に居場所を求めて、その欲望を問う。つまり、大文字の他者における欠如を、自らをはめ込める隙間を、探し求める。その結果は、大文字の他者における「空集合」(大文字の他者における、空隙の無さ)に対し、fadingそのもの、無rienを投機する、というものである。つまり、自分自身の存在の無さを、大文字の他者における無に賭けるのある。
 ちなみに言えば、これこそが分離と呼ばれる運動である。つまり分離とは、二つの無を重ねることによって、主体が大文字の他者への疎外から身を引き剥がし、独立する運動である。
 まさにこの賭けにおいて、主体は消失と同時に成立するのだが、この時切り離された主体自身、主体の存在の無さそのもの、抜け殻のようなものが、対象aである。両者は結びあって、幻想という形で、大文字の他者の欲望の問いとなる。

このように提示された幻想について、図の記すところは、欲望が、身体の心像に対する自我の場合と同じように、自らを調整するということだ(É p816)。

 こうして、「汝何を欲するか?」の問いから、グラフは完成に至る。

 グラフの下段において大文字の他者があった位置に来るのは、S/◇Dである。これは欲動pulsionのマテームと言われる。
 欲動とは何か。その原語はTriebだが、従来「本能」「衝動」などといった訳語が充てられてきた術語であり、「身体的衝拍を示す何か」を連想しないではいられない言葉である。分析理論において、それは主体の基本的なエネルギーであり、バラバラの身体を突き動かしている力である、とされる。
 ラカンは「欲動は本質的に死の欲動である」と言うが、それは欲動のこの部分性を指してのことである。欲動とは部分欲動である。つまり、統合された自我から発するのではなく、論理的にこれに先行するバラバラの肢体が、それぞれにdriveされているエネルギーのことである。正確に言えば、まさにこの「バラバラさ」自体が、一つの死、文字であり、すなわち死の欲動なのである。
 それは「一つの知un savoir」であるが、「眠っている間に頭皮に彫られた入れ墨のように」「ほんのわずかな認識connaissanceすら含まない知」である(É p803)。
 この欲動が、S/◇D、すなわち抹消された主体と要求によって構成されるマテームによって表され、この場所に据えられている。どういうことか。

主体は自分が話していることすら知らないので、それを言表内容énoncéの主体として、つまり分節する者として、どこにも示さないでいることは難しい。それがわかった以上、無意識の主体を支えている機能に問いを向けなければならなかったのだ。ここから、欲動pulsionの概念が生じる。こにおいて主体は、口唇的、肛門的等々の器官的目印によって示され、この目印は、主体は話せば話すほど話すことから遠ざかる、という要請を満たすものである。(É p816)

 言表内容の主体とは、実際に文の中で指示される主語のことである。主語が示されざるを得ないのは、主体が「自分が話していることすら知らない」からである。もしも知っているとすれば、前述のように、SはAである。
 言表行為énociationの主体そのものは、例えば虚辞のneといった形、消えゆきつつも行為の主体を彼方に示すものとしてしか、言表内容の中には現れようがない(É p800)
20。それゆえ、主語が、言表されているものとしての表示が必然的に要請される21
 逆に、言表内容の中には虚辞のne等としてしか現れ得ないこの主体、「真の主体」、つまり無意識の主体をどこか具体的に求めるとすれば、それは身体的な目印の中に見い出すより他になくなる。無意識における「シニフィアンの宝庫」の位置に、欲動が位置付けられる所以である。

しかし、もし我々の完成図が欲動をシニフィアンの宝庫として位置付けることを許すなら、その(S/◇D)としての符号化は、通時態と結ばれることによってその構造を保つ。欲動は、主体がそこに消失する時、要求から生じるものである。要求もまた消えるにせよ、これは自明であり、ただ裂け目coupureは残る。というのも、この裂け目は、欲動が住み着いている器官の機能から欲動を区別するもののうちに、すなわちその文法的技巧のうちに、現前し続けるからだ。この文法的技巧は、その対象への、そして源泉への、分節の先祖返りréversionにおいて、非常に明白である(この点について、フロイトは汲み尽くせない)。(É p817)

 「シニフィアンの連鎖におけるこの裂け目は、主体の構造を現実界における不連続として確かめる唯一のものである」(É p801)。フロイトが『精神分析入門』の末尾に示した著名なフレーズ、Wo Es war, soll Ich werden(エスのあったところに、自我が生じるだろう)、これをラカンは様々な箇所で様々に読み替えているだが、ここではLà ou c'etait (それが今しがたまであった所に)と半過去の特徴をもって訳し、その場所に「〈私〉は、自分の言葉から姿を消すことによって、存在に至る」としている(É p801)。言表行為の主体は、言表内容から消え去ることにより、主体として存在に到達する。ただ跡には、裂け目だけが残る。それが身体の裂け目であり、ここにひっかけられた欲動である。
 こうして欲動は、他者への果てしのない愛の要求に主体がはまり込む、という形で現れる。要求とは愛の要求であり、愛とは「無いものを与えること」である以上、抹消された主体は、この無いものに自分を重ねて、欲動の形を整える。要求との関係において抹消された主体が一つの幻想を作り上げる、ということである。これがマテームS/◇Dの示すところである。

 一方で、グラフ下段においてシニフィカシオンの結実としてS(A)があった場所には、マテームS(A/)が配置される。これは「大文字の他者における欠如のシニフィアン」と読まれる(É p818)。その示す所は、「大文字の他者の大文字の他者はいない」ということである。あるいは、「話されるのが可能なメタ言語は存在しない」と言ってもよい(É p813)。大文字の他者という第三者の審級に対するさらなる第三者、メタAは存在しない、ということである。
 この大文字の他者における欠如のシニフィアン、それは、「それに向かってあらゆる他のシニフィアンが主体を表象しているシニフィアン」であり、「このシニフィアンが欠けると、他のすべてのシニフィアンは何も表象しなくなる」ようなシニフィアンである。「その言表内容はその意味作用に等し」く、「シニフィアンの集合に対する、ひとつの(-1)の内属によって象徴しうる」(É p819)。つまり、Aには欠如があり、それゆえにシニフィアンの流動性が確保される。もしこの-1がなければ、Aはコードとなってしまい、シニフィアンの置き換えは起こらず、意味作用は生じないだろう。しばしば聞く譬えだが、碁盤の目状にブロックが配置されブロックを一つずつ動かすことで図形等を完成させる玩具では、一つだけ空きのコマがあるからこそブロックを動かすことがことができ、遊びが成立するのである。
 このシニフィアンは、「その言表内容はその意味作用に等し」いゆえに、「文字の審級」で提示された隠喩のアルゴリズムによって、そのシニフィエが-1という虚数として導出される。
 つまり、グラフ上段は「汝何を欲するか?」という大文字の他者の欲望の問いから形成されたが、その最終的回答は、無いということである。「無い」という回答があるのではなく、何の回答も無いのである。虚数がマイナスとしても無理数としても数直線上に位置付けられないように、回答それ自体が「無い」。それがこの「象徴ゼロの欠如のシニフィアン」(É p821)の示すところである。
 大文字の他者の欲望の問いは、大文字の他者の欲望、すなわち「大文字の他者における欠如は何か」というものだった。主体は、その欠如に自らを投機しようとする。
 神経症者においては、この欠如が他者の要求と同一視される(É p823)。つまり、大文字の他者の欲望は明示され、主体はその言葉に答えることができると信じるのである。その結果、主体はS/◇D、すなわち要求と結ばれた欲動の場所にしがみつくことになる。
 大文字の他者の無回答、この恐ろしい現実性に直面し、神経症者は恐れをなし、要求へと回答を求め、欲動に場に身を置く。これは、あくまでも大文字の他者から何らかの回答を得ようとする態度である。
 我々としては、オモチャ売り場で仰向けになって、手足をバタつかせて駄々をこねる子供の姿を想像したい。そのオモチャがいかにつまらないものであれ、彼はそれを言葉にし、要求し、なんであれ回答を得ようとする。買ってもらえたオモチャは、きっとすぐにゴミ箱行きである。それでも彼は要求することをやめない。神経症者は、このように、次々とオモチャを換えて要求し、大文字の他者から決定的回答を引き出そうとし続ける。

 ところで、「意味の意味」を巡って思考する我々としては、ここから一つの連想を働かさないわけにはいかないのではないか。問いに対する答えに固執する態度、それは、根源的な意味というものをどこまでも追求してやまない、我々の弱い心と呼応する。すると、意味はやはり一つの病理としてしか成り立ち得ないのか。
 そうとも言えるし、そうではないとも言える。分析治療の場面においては、やはり回答は与えられない。分析家は主体を象徴欠如のシニフィアンに向き合わせ、彼の期待を裏切る。これが解釈によってなされる技法上の操作であり、後述する「分析家の欲望」の機能である。
 だからといって、意味を求める神経症的態度のすべてが否定されるわけではない。我々がこのように答えをはぐらかすのには、理由がある。
 その理由を開示するには、次章での転移概念の理解が不可欠である。ゆえに、我々はまたしても問いを宙づりにしたまま前に進む。

 しかし、幾つかのノートをここに残しておこう。
 回答=意味=方向を期待するのは、確かに神経症的態度ではある。だが、神経症的であるということは、ほとんど健常であるということと同義である。というのも、我々の考察の領野には、精神病と倒錯という、これとの絶対的差異を強調しなければならない項目が残されているからである。
 もう一つメモを残そう。ここで、意味は「求められている」。つまり、意味は初めにあるのではなく、問いへの答えとして期待されている。神経症者は意味にこだわり続けるが、それを手にしているわけではない。まさにそれが欠けているからこそ、大文字の他者の中に求めてやまないのである。


5 転移、分析家の現前、分析家の欲望

 転移とは何だろうか。
 まずは通俗的に理解されている転移概念から始めよう。
 転移とは、「患者の分析家に対する強い情動的な関係」である
22。転移現象自体は、分析場面に限らず、あらゆる強い感情移入を伴う人間関係に現れうる。乱暴な言い方をすれば、深い人間関係にはほぼ常に転移的現象を見い出すことができる。
 一般に転移は、陽性転移と陰性転移に分類される。陽性転移とは、愛に、少なくとも似ている現象である。我々としては「恋着」という日本語をもってこれを表現したい。この愛は、「本物の愛」ではなく、いわば「一時の気の迷い」であり、擬似的なものとされる23
 一方、陰性転移とは、分析家に対する憎しみにも似た、攻撃的感情である。両価性という言葉でもって表されることもある。
 要するに、転移とは「愛憎あいまった」関係である。ただし、それが精神分析における狭い用法において、単なる一般的恋着から区別されるのは、転移が何かの再現前化である、という点においてである。
 新宮一成は、『無意識の病理学』第二章において、転移概念を次のように整理している。すなわち、第一に、転移は「何かの転移」である。つまり、どこかに転移の「原版」がなければならず、転移はあくまでその再現前化である。
 第二に、その転移の原版とは、抑圧された無意識の欲望でなければならない。感情転移という語法はミスリーディングであり、感情は既に欲望の派生物である。「転移される欲望は一たん抑圧されていなければならない」24
 第三に、転移は反復強迫の原則にのっとってあらわれなければならない。転移とは、本質的に、自我に不快をもたらすものの反復なのである。

 転移は、分析において決定的な役割を果たす。一般に、転移が成立していなければ、つまり分析家への強い信頼や恋着等が発生していなければ、分析はその本領を発動させることができない。すなわち、「解釈を与えるには、転移を待たねばならない」。
 しかし一方で、一般に、転移とは抵抗性のものであると言われる。抵抗とは、分析家の介入に対して自我が抗い、症状を守ろうとすることである。転移は分析の進行を妨げる邪魔者としても働く。
 つまり転移は、それがなければ分析が成立しない決定的要素でありながら、同時に抵抗でもある、という諸刃の剣なのである。この実に逆説的な転移の本性について、主に『セミネール』11巻を参照しながら、考察を深めていこう。

 ラカンは「知っていると想定される主体sujet supposé savoir」という概念を導入する。何を知っているのか。「本当の意味」である。例えば、「私の症状の意味を知っている」である。この「意味」を「知っている想定される」「誰か」が、sujet supposé savoirである。
 ラカンの寓話をそのまま援用させてもらおう。
 ある人がチャイニーズレストランに食事に行ったとしよう。そこでメニューが差し出される。しかしそこに書かれているのは、中国語の文字列であり、彼はその意味がわからない。そこで店主に彼は尋ねるのだが、返ってくるのは「皇帝のパテ」とか「春の巻物」といった答えである。その意味sensはさっぱりわからない。そこでとうとう、彼はこう言うだろう。「おまかせでおねがいします」。つまり、私の欲望を知っている者、それはあなたです、というわけである25
 患者にとって、分析家はそういうポジションにいる。彼は症状に苦しみ、その意味を理解できないでいる。遂に精神分析治療の門を叩くにあたり、彼は考える。分析家、この先生なら、私の症状の意味を知っているに違いない、と。どうか私の症状を解読して下さい、と。
 同時に、知っていると想定される主体とは、無意識の主体という意味でもある。つまり、「本当の私」なら、症状の意味を理解しているはずだ、ということだ。症状を形成しているのは、どこか背後にいて、私を特急列車の先頭に括りつけるように、症状という現実性の嵐にさらしている「本当の私」である。これは「真の自己」という限りで、愛すべき者であると同時に、私を意味不明の症状の台風へと叩き込んでいる、憎むべき敵でもある。
 精神分析では寝椅子の上に患者が横たえられ、その背後に分析家が座る。つまり、分析家は「症状を解読できる偉い先生」として、同時に「私の背後にいて私を操っている真の私」すなわち無意識の主体として、この位置に座るのである。
 「知っていると想定される主体、それがある時、常に転移がある」とラカンは言う。私は、わけのわからないヒエログラフを前にして、ただ翻弄されている。その意味が私にはわからない。だが誰かが知っている。知っている者、それは絶対的な第三者として、我々を見下ろしている者、全体を把握している唯一の者、すなわち大文字の他者である。この位置に、分析家は座る。
 それゆえ、「知っていると想定される主体がある時、常に転移がある」のである。転移とは、何者かが私の意味を知っている、という想定の元に成り立つ。その何かは、抑圧されて無意識にあるゆえ、私は直接に知ることはできず、代わりに誰か、すなわち「無意識の主体」や「偉い先生」が知っている。かつて誰かが知っていたものが、今ここで背後の主体の知として再現前化する。すなわち、「転移とは無意識の現実の現勢化であるmise en acte」26

 我々はここで、シェーマLおよびその簡略化としての三角形を思い出すべきだろう。
 患者と分析家の関係は、SとAの関係にある。Aは現前する。つまり、今ここにある現実として、背後に座っている。一方、対象は表象である。かつて現前していたが、抑圧されたもの、それが現前する大文字の他者の元に再現前化する。すなわち、無意識の現実の現勢化である。
 再現前するのは、三角形の頂上に位置する「対象」である。この対象objetは、かつて現前したが、失われてしまったものである。そのような、今は無きもの、話の種でしかないものが、次々とこの位置に滑り込んでくる。そして最終的にここにやってくるべきものは、一番最初に分離された対象、原抑圧によって失われた対象、対象aである。それゆえに、分析は対象aを巡って進行する。
 このように、「主体」「知っていると想定された主体としての大文字の他者」そして「表象としての対象」という三項関係が、転移によって形成される。ただし、これは分析の条件であって、最終形では全くない。というのも、先に述べた通り、転移とは抵抗でもあるからである。

 転移が「知っているはず」という想定のもとに現れる以上、そこで一度、分析家はある種の完全者として仮定される。もしも分析家が本当に知っているなら、それは単に知の配分が行われたというだけであり、状況としては静的に完結している。大文字の他者と主体が癒着し、一種のコードを形成してしまう。「先生が知っているなら安心だ」というわけである。
 このような単なる恋着としてある限りでは、転移とは無意識の閉鎖であり、開示ではない。私とあなたの想像的双数関係により、むしろSとAの回路は閉ざされてしまう。つまり、想像的な関係が状況を支配してしまい、無意識が場に入り込む余地がなくなってしまうのである。
 ここにおいてこそ、解釈が介入する。解釈とは一つの意味作用の提示である。ラカンはこれを区切りscantionという。つまり、想像的なベッタリとした語りに、区切りを入れる、ツッコミを入れるのだ。
 ここにおいて、自我は転ぶ。例えば、言い間違いが起こった時点でセッション区切られる。あるいは、症状の不可思議な解読が示される。その区切り点、ツッコミ、句読点によって、自我と対象の想像的な関係が躓き、無意識が開く。
 分析とは、このような無意識の閉鎖と開示を繰り返しながら進められるべきものである。その軸となるのが、「分析家の欲望」と呼ばれるものである。

 「分析家の欲望」とは何か。
 分析家は、「知っていると想定される主体」である。しかし、想定はされているものの、本当のことを言えば、当然のことながら、彼は何も知りはしないのである。つまり、AはA/であり、S(A/)なのである。
 この事実は、患者自らによっても察知されている。当然のことながら、分析家がどんなに偉大に見えようが、神ではない。それゆえ、彼は間違える可能性もある者として想定される。患者は分析家を信頼するものの、彼が間違えるのではないか、さらにいえば、自分によって騙されてしまうのではないか、と考える。つまり、自分の語りよう如何によっては、「誤診」したり、間違った解釈をしたりするのではないか、と疑われる。
 何か残りがある。知っていると想定はされるものの、やはり依然としてその主体は全能の他者ではない。何か残りがある。この残り、大文字の他者に斜線を引いているもの、それは分析家における欠如であり、分析家の欲望である。
 この欲望、大文字の他者の欲望(神の欲望!)をめぐって、分析は回転していく。もちろんこの欲望は、単に分析家個人の欲望ではない。「人間の欲望は大文字の他者の欲望である」(É p814)というように、この欲望は主体の欲望でもある。患者が分析家と想像的関係ではなくSとAの関係にある限り、問題となる欲望は双数ではなく、一つの欲望しかない。それが分析家の欲望、大文字の他者の欲望である。
 ラカンは転移と逆転移といった対称関係的理解を笑うが、それは、転移において問題になっているのが、唯一大文字の他者の欲望であり、人間的想像的欲求などでは全くない、ということである。この唯一の謎をめぐって、分析は展開する。

 ここで我々は、「欲望の弁証法」の第三のグラフを思い出さなければならない。つまり、「汝何を欲するか?」という、大文字の他者の欲望の問いによって、大きく上方へとはり出したクェスチョン・マークである。これが、転移における、分析家の欲望の位置の働きである。
 大文字の他者の欲望とは何か? すなわち、「真の私の望んでいるのは何ですか?」。この巨大にして深淵な問いが、転移において現れる。逆に言えば、転移とは、この問いのある限りにおいて起こりうる現象である。転移とは想定であるが、同時に問いでもある。想定である限りで、無意識の閉鎖だが、問いである限り、無意識の開示でもある。想定が確信ではないことが、転移を問いとして保留させている。
 もしもこの問いがグラフの上方へと展開しなければ、Aは全き完全者にとどまってしまう。この状況では分析は不可能である。これは、いわゆる精神病の状態と言ってよい。精神病においては転移が起こらない、というのはフロイトの有名な定式である。
 一方で、神経症においては、転移が可能である。彼は分析家を知っている者として想定するが、同時に知らないのではないか、あるいは間違えるのではないか、騙されるのではないか、という問いを保留している。彼は疑っている限りにおいて想定しているのである。
 神経症者は欲動S/◇Dに固着し、際限のない要求の嵐に曝されている。しかし、解釈の介入によって、あるいは問いの残る限りにおいて、S(A/)、つまり「回答なし」という過酷な現実がやってくる。患者は必死で「知っているはずだ」「知らなければ困る」と抵抗するが、その度に分析家の無知が、能面のように返ってくる。彼は手をかえ品をかえ、分析家への恋着を、要求という形で表現する。「あなたの望んでいるのはこれですか?」「それともこれですか?」。ヒステリ-者が隠喩の天才と言われる所以である。
 しかし、依然として答えはない。圧倒的に、答えはない。「神様は何も言わないよ」「言わなくなって何年にもなる」27。このS/◇DとS(A/)の「何年にも及ぶ」振り子運動の中で、何かが析出されてくる。奇妙なものが、空缶のように、空しく主体の足元に転がってくる。
 それは、主体が最初にそれと分離されることによって、抹消された形で成り立ったものである。つまり、対象aである。この時、対象aは何でもないものrienとして現れる。ゴミクズのような何かが、次第に、「君はこれだよ」と析出されてくるのである。というのも、対象aとは、原抑圧によって抑圧された、私がそれであることによって、それを捨て、切り離され、存在へと帰ったものだからである。このあっけない結末、何でもなさ、そこにおいて始めて、主体の自由な決断が可能になる。
 もしもここで「いや、あくまであなたは知っているはずだ」とこだわるなら、分析は終わらない。神経症者はこの要求に固着するゆえに、分析は簡単には終了に向かわない。だが、決断は迫られる。この決断は、早急なアクティング・アウト28と横顔を類似させながらも、全き反対物である。真の自由における決断、それは行動化ではない。ゴミクズのようなもの、それはゴミクズゆえ、ゴミ箱行きなのだ。つまり「勝手にしやがれ」なのだ。患者はこの時、初めて分析家が何を考えていようと、何を知っていようと、そんなことにはお構いなしに、一つの決断を下す自由を手にする。
 大文字の他者の無返答、それを前に、主体がついに決断を下す時、すなわち「もうどうでもいい、私の好きにする」という時、それが分析の終わる時である。彼はゴミクズをゴミ箱に放り込むことによって、自らに刻まれた欲望、大文字の他者の欲望を引き受けたのである。


6 問いの回帰、対象a--結語のための助走

 問いは返ってくる。
「意味はいかなる形で正常に導入しうるのか」。あるいは、「我々はいかにして狂信者たることなく信仰者たりうるのか」。この壮大な問いが返ってくる。
 これがいかなる問いであるか、というよりはるか以前より、これは一つの問いであった。つまり、少なくとも何かが問われていた。だからこそ、我々はここまで進んできたのだ。あたかも大文字の他者の欲望の問いのように、我々は大きくクェスチョン・マークを展開した。この大きな問いは、そのまま我々の大きな迂路に重なる。
 問いは問われる。ここまでの打回路を共に歩まれた以上、意味の意味とは、問いを問うという行為自体と不可分であることがわかるだろう。「何かがそこにある」「意味がある」という想定、あるいは期待が、我々に問いを問わせるのだ。問いは答えを求めて問われる。しかし当然のことながら、我々の元にかえってくるのは、大したものではない。それどころか、何も返って来ない。「神様は何も言わない」のだ。ただ問いだけがこだまし、問うものは失われた意味を巡って迂回し続けより他にない。我々の主観が意味と一体である以上、迂回をやめるわけにはいかない。この回路の中で、回答の抜け殻のように、何かが転がってくる。空缶が。何でもないものが。
 この「何でもないもの」、我々が決定的答えとして求めてやまないにも関わらず、常に逃げ去り、ただ空虚な痕跡としてしか手にできないもの、それがラカンのタームで対象aと呼ばれるものである。
 『セミネール』11巻第13講において、対象aとしての眼差しregardの機能を説明するにあたり、ラカンは珍しく若い頃の思い出話をする。それは次のようなものである。
 若きジャックは、よくいる活発で利発な青年の一人として、自らのインテリとしての優遇された生活に疑問を覚えてか、荒い海で漁師として働いたことがあったという(一夏のアルバイトであったと想像しよう)。この時、船の上で、彼の同僚である無教養な男が、海上を指差した。そこにはどこから流れてきたのか、一つの空缶が浮かんでおり、強い陽射しを反射して、キラキラと輝いていた。男は次のようなジョークを放った。「こっちからは向こうが見えてるけど、向こうからはこっちが見えていないんだぜ」。しかしこの時、ラカンは、「違うのではないか、むしろ向こうこそがこちらを眼差しているのではないか」と直観した。
 眼差しとは何か。それは例えば、催眠術師の使う「光るもの」であり、擬態を使う昆虫の背負った眼状の斑紋である。眼差しは、声、糞便、乳房などと並んで、「主体が成立するために手放した器官としての何か」である対象aの一例である
29
 暗い部屋に一人入り、誰かの視線を感じてハッと振り返る。何かが光った気がした。が、良く見てみると、それは鏡であり、誰かが見ていると思ったのは、鏡に映った自分の視線だったのだ。この「なんだ、私か」と気付く一瞬前の輝き、それが眼差しである。
 若きジャックが、この輝くものが我々を眼差しているとう事実に、つまり我々が見るより前から我々を眼差しているものがあるということに気付いたのは、まさにその時の彼が、無教養で粗野な漁師達の中で、斑紋のように場違いに浮き立ったシミ的存在であったからである。つまりこの時彼は、「あ、あれは私じゃないか」とハッとしたのだ。海の上ではカンが浮いていて、船の上ではラカンが浮いていた、というわけである。
 この時の空缶、眼差し、何でもないもの、すなわち対象a、それがカラカラと空しく足元に転がってくる。雄大な答えの代わりに、肩透かしのようなあっけないものが転がってくる。
 我々の足元にも、何かが転がってきた。
 拾い上げてみる。


7 精神病

 神経症と区別される限りでの、精神病とは何か。このような問いに対し端的に答えるのは、もちろん行き過ぎた冒険であるが、とりあえず、「象徴化が実現しない時、これに代わって出現する病的過程」30と言ってみよう。
 ラカンは、精神病においては、父の隠喩が、抑圧されるのではなく、排除forclusion Verwerfungされる、という。父の隠喩とは、A/、つまり他者に欠如があることを示すシニフィアンである。
 神経症においては、このシニフィアンS(A/)が抑圧され、欲動への固着が起こる。前述のように、彼らはここにこだわり、際限のない愛の要求を投げ続ける。ただ、神経症者は、このシニフィアンを持っていないわけではない。ただそれが抑圧され、無意識化されているということであり、大文字の他者における欠如自体は、象徴化されている。つまり「『無い』がある」という地平に立っている。
 ところが、精神病では、この「無い」自体が無い。「無い」を示す最終参照項としてのS(A/)が、そもそも導入されていないのである。大文字の他者が、文字通り完全無欠の他者としてとどまっているのだ。それは、人格神や全体者のようなものが、具体的生活、想像的世界に、直接出現するということを意味する。
 精神病者は、「想像的な欺瞞の戯れを、自分と類似の他者aとの間にではなく、現実化祈保証人である他者Aとの間に持っている」。そのため、「a-a'の横軸とS-Aの縦軸が、いわば重なりあい」、神のごとき絶対者が想像的対象として出現する31
 始源の象徴化が行われていないがために、何かが取り残され、現実界に留まっている。それが想像的世界、つまり我々が普通に言うところの現実の中に、知覚の水準で出現するのである。
 このことは、『精神病』のセミネールにおいて、他者が除名exclusionされている、と表現されている。シェーマLで言えば、Aの審級、すなわち象徴的次元が導入されないため、想像的関係にベッタリ張り付いた状態になってしまう。別の言い方をすれば、AがAとして、つまり第三者としてではなく、想像的関係の中に出現する。その結果、例えば神が彼に直接語りかけてきたりするのである。
 S(A/)が導入されない、ということは、「欲望の弁証法」のグラフで言えば、上段がなく、下段の段階だけですべてが完結してしまっていることになる。
 神経症者においては、大文字の他者の欲望が問われる。つまり、大文字の他者に欠如があることが認められる。しかし、精神病では、この欠如が受け入れられないため、そもそも問いが起こらない。結果、グラフは上に延長されない。このレベルでは、大文字の他者は、文字通りの閉じた完全者、すなわちコードとなってしまっている。
 Aは「コードを意味しない」(É p806)と言われる。それはつまり、主体がそこにおける欠如を求め、これに自らの存在を賭けている、ということである。しかし、精神病においては、これがコードなってしまい、シニフィアンの流動性は失われ、シーニュがベッタリと世界を覆いだす。

精神病の主体においては、コードのメッセージとメッセージのコードが純粋な形で区別されるだろう。精神病者は、このあらかじめの大文字の他者に自足しているのだ(É p807)。

 メッセージとはパロールの構造のことである。すなわち、「主体は己のメッセージを他者からひっくり返した形で受け取る」ということである32。Aの審級とは、鏡面そのものであるため、主体は己のメッセージを反射され、返される。これによって、つまり大文字の他者というランガージュの場において、初めて主体は語ることができる。主体が、自我(鏡像)において、語るのである。あるいは、主体とは大文字の他者の次元に一回疎外されることで成立するものである、と言いかえてもよいだろう。
 それでは、コードのメッセージ、メッセージのコードとは、それぞれどういうことだろう。コードとはもちろん、シーニュの集合体のような、一対一対応関係の集まりである。それゆえ、コードのメッセージとは、コードによるメッセージ、つまりそれ自体で完結し、他に参照項を持たない語による、一方的なメッセージのことである。
 精神病者においては、シュレーバーにおける基本語33、あるいは語唱34といったように、お経の如くある文句が絶対的意味を持ち、それ自体で完結し、繰り返される、という現象が見られる。これがコードのメッセージである。
 一方、メッセージのコードとは、メッセージの形式、シュレーバー症例で言えば「今、欠けているのは......」等々と、途中で途絶えて、欠けた所に語を期待するような、メッセージの形式自体がコード化しているもののことである。
 正常な言語活動においては、意味作用は他の意味作用に回付されることによって初めて意味を伝える。しかし、精神病では、コードのメッセージやメッセージのコードといった、硬直した形でしか言語が働かない。これは厳密に行って、偽言語とでも言うべきものであり、オウムの言葉が真に言語とは言えないように、言語を真似たようなものにすぎない。つまり、象徴的審級が導入されていない。大文字の他者は、そこに欠如のあるようなもの、つまり欲望の次元があり得るようなものとして導入されない。
 そのため、グラフを上に延長するための問いが発生しない。精神病における意味は、ほとんど「存在」と同じことを指している。同語反復のように自分自身を示し、「ここ、ここ」と言い続けるように、硬直した意味、意味とは言えない意味だけがある。
 言い換えれば、最初に答えがあり、問いがない、という状態である。精神病における意味作用は、意味作用としての正常な働きをしていない。つまり、他の意味作用へと参照されない。一見正常に見える活動があったとしても、それらはオウムのような偽言語であり、意味はどこにも方向を見い出さず、そのもの自体に中に埋没している。つまりこれは、語の真の意味では、意味=方向とも言えない代物である。

 機知のことを思い出そう。機知において、意味=方向の発生とは、主体が危機から脱出する、忍術のような働きをしていた。しかし、精神病的主体においては、この主体のすり抜け、あるいはずり落ちがおこらず、硬直したままそれ自体で自足してしまっている。
 精神病の主体では、意味=方向が本来の仕方では出現しない。意味は、本来問いから生まれる。一つの窮地からの脱出として、問いの彼方に「想定される」。しかし精神病では、初めにベッタリと想像的世界にはりついたシーニュがあるだけで、問いは問われず、硬直した擬似的な「意味」、何も示さない「意味」だけがある。
 一方で、神経症者では、問いが立てられる。「知っていると想定された主体」を想起しよう。そこで知は、つまり意味の知は、私の知ではなく、大文字の他者の知として、想定された。確かにそこには、意味がある。しかしその意味は、精神病者におけるように、個人的意味作用として初めにあるのではなく、彼方に、自分ではなく誰かが知っているものとして、想定されるのだ。
 つまり、初めにあるのはあくまで問いである。大文字の他者の欲望の問い、つまり唯一の問い、対象aを軸に回転する唯一の欲望に向けた問い、これが最初にある。意味=方向は、その彼方に、あると「想定」された時のみ、非精神病的な形で成立し得るのだ。


8 信仰と狂信

 改めて、大文字の他者について考える。
 大文字の他者とは、精神病をめぐる問いの中で、「再認reconaiîreされているが認知conaîtreされていないもの」とも定義される
35。つまり、それが存在することは認められているが、どんなものかはわからないもの、ということである。言葉なき幼児を抱き上げ鏡の中へとその像を投げ込ませる、力強い父親の視線、それがこの大文字の他者の審級である。
 認知されていない、ということは、大文字の他者がコードではなく、完全者ではないことを示している。すなわち、そこには欠如がある。前述の通り、ここに向かって、最初の問いが立てられる。少なくとも、神経症者においては、この欠如、大文字の他者の欲望が、要求とすり代えられ、徹底的に問われる。
 我々は、まさにこの問いの有無、あるいは問いの位置において、我々の問いに対する暫定的な回答が与えられる、と言おう。

禁じられた傾向や意味作用などが惹起するのとは、異なる形の防衛がある。それは、問いに対する答えのない場所には近づかないという防衛である。
そうすれば人はより平静でいられるし、結局それが、普通の人々の特徴である。「問いを立てない」、人はそう教えるのであり、それによって我々はここにいる。しかし同時に、我々は、精神分析家である限りにおいて、問いを自らに課してしまった不幸な人々を明らかにしなければならない。神経症者がある問いを自らに課していることは確かである。精神病者については、これは定かではない。答えがおそらく問いより先にあったのだろう。これは一つの仮定である。あるいは問いがそれだけで立てられたのだろう。これも考えられないことではない。36

 神経症者においても、健常者においても、精神病者においても、意味は、ある意味ですべからくある。だが、その位置づけが異なる。
 神経症者では、あくまで最初に問いがある。神経症であるということは、要するに問いを立ててしまった、ということであって、健常と言われる人間も、多かれ少なかれ、神経症的ではある。彼らは問いを自らに課す、という苦行を選ぶことを避け、防衛しているだけであって、いつでも問いのやってくる余地を残しているからである。
 このような問いの先立つ体勢においては、意味があるにしても、それは苦境を奪取する方向として、彼方に想定されるものである。神経症者は意味を求める。健常者は意味について深く考えない。だがいずれにも共通して言えることは、彼らにとって、意味は手元にあるものではなく、彼方へと去り、何度でも何度でもそれに向かって問いかけるべき対象である、ということだ。
 一方で、精神病における意味は、これとは異なる。それは、「疑似意味」とでも言うべき、硬直したシーニュ、あるいはその集合体としてのコードとして、初めに与えられる。「答えが問いより先にある」のである。つまりコードのメッセージである。
 問いがそれだけで立てられるとは、硬直化した問い、すなわちメッセージのコードである。「今、我々に欠けているのは......」というフレーズは、一見何かの意味作用を持っているようで、実はメッセージの形式自体をただ常套的に反復しているだけのものにすぎない。

 このような精神病的主体の姿勢は、我々にいわゆる狂信者の態度を連想させる。我々は初めに「意味はいかなる形で正常に導入しうるのか、あるいは導入しえないのか」という問いを立てた時、その向こうには「我々はいかにして『狂信者』であることなく、信仰者たりうるのか、あるいはあり得ないのか」というより深遠な淵が張り付いていることを示した。今ここで、これらの問いに、いささか飛躍を含みつつも、やはり暫定的な見通しを与えてみたい。

信仰によって生気づけられているように見えるパラノイアそれ自体の根底に、「不信仰Unglauben」の現象が支配している。これは、「信じない」ということではなく、信仰の諸項の一つ、すなわちそこにおいて主体の分轄が示される一項目が欠如しているということである。結局、満ち足りた完全な信仰ががないということは、その根底において、信仰が明らかにされるべき最終的次元が、そこにおいてその意味が消失する契機と、厳密に相関的であることを想定しない、そのような信仰などない、ということである。37

 個人的意味作用を発見し、これに基づいて構築した妄想を信奉しているかに見えるパラノイアにおいて、真に働いているのは、「不信仰」である。つまり、大文字の他者という象徴的次元による仲裁の欠落であり、正確には大文字の他者における欠如の排除である。精神病者、あるいは狂信者は、最終的次元で欠如をもつものとしての無限定者を、徹底的に信じていない。
 欠如を欠いた大文字の他者は、シニフィアンの流動性を失い、硬直したコードの体系と化してしまう。これは厳密に言って、信仰の場ではなく、言えるとしても「狂信」でしかない。
 真の信仰は、逆説的にも、その根底において完全性が損なわれるものである。つまり、シニフィアンの柔軟性が残されなければならない。
 信仰は完結しない。信仰とは象徴的次元の導入である以上、大文字の他者の視点の元に主体がfadingとして成立する、ということと同義なのだ。一見、完全者が想定されているように見える信仰においても、問いは保留されており、すなわち大文字の他者の欲望の次元が残されている。神が欲望を持つ限りにおいて、信仰は狂信から分かたれる。神が疑われ、神が問われる時、初めてその信仰は、不完全なものとして成立する。

あらゆる信仰を支えているのは、基本的な疎外の実践であり、すなわち次のような二重の点においてである。つまり、信仰の意味作用が最も深遠に消失する契機において、主体の存在が、厳密に言ってこの信仰の現実性と言うべきものから顕らかになる、ということだ。38

 信仰の礎にあるのは、主体が大文字の他者というランガージュの場における疎外によって成立する、という疎外の運動である。しかしこの疎外は、大文字の他者における無として、主体がそこから身を引き剥がす、分離の運動の支えでもある。
 問いが残される限りにおいて、つまり信仰に疑いの余地が残る限りにおいて、初めて主体が疎外によって成立する。まさに問いかけによってこそ、主体は、消失として、大文字の他者の次元に同一化し、抹消されつつ生まれるからだ。主体は、「主体的」という日本語の語感に反し、まさにsujet臣下として従属し疎外されることで初めて、主観的=主語的subjectifなものとして成り立つ。
 そしてこの疎外と分離の運動と同時的に、コードではないA、圧倒的な無回答者としてのAが、斜線を引かれて不-成立する。大文字の他者の欲望、それが認められるからこそ、信仰は信仰たりうる。もちろんこの欲望とは、ただ問われるのみであり、対象として示されることはない。「何も言わない」神であるからこそ、主体=臣下は信仰という関係を投げかけることができる。つまり、残余のあるものとして、永遠に問われ続けられるものとして、なおかつ答えの無いものとして、絶対的第三者の次元が定立される。
 問いは問われ続けなければならない。問いを問わない、答えのないような問いを問わない、それは確かに、一つの防衛としては成功かもしれない。しかし一度問いを立ててしまった者が、そこからある種の「健全な眠り」へと戻る戻るためには、徹底的に問うことが必要だ。問い尽くすことによって、初めて問いの休止が可能になる。S/◇DとS(A/)の間の揺れ、つまり問うても問うても答えなし、という実践においてこそ、分析も信仰も実践し得る。
 この問い続ける運動の中で、最後にやってくるものが、対象aだ。最初に抑圧された、何でもないものである。この最終的な自由の場においてのみ、主体は文字通り主体的に決断することができる。
 信仰は問いかけであると同時に、問いからの撤退という、不可能な次元に向かっている。この不可能性は、問いを忘れる、という、一つの不可能性の可能性において初めて、可能な何かへと、方向付けられる。

 あるいはこうも言い換えられよう。信仰に「目覚める」ということは、その晩には健やかな眠りにつくことである、と。信仰とは、制度への疎外と私的信仰心への分離という二重の運動から構成されているものだ。眠りを容れない信仰は、硬直した狂信となる。「機知」を参照して言えば、他者の視点が導入されず、ユーモアの欠如したものになる。一般に狂信者に最も欠けているもの、それはユーモアである。
 もちろん、両者の差異は極めて微妙であり、危険である。それでも我々としては、何度でも何度でもこの差異を叫び、この空隙に向かって問いを投げなければならない。それこそが唯一、狂信者を信仰の元につなぎとめる方法であり、また我々が最小限の健全さを失わずに信仰を保つ術でもあり、さらに言えば、我々が主体である為の条件であるからだ。


9 結語

 我々の回答は、答えとしてはいささか乱暴に過ぎるだろう。
 まだまだ問われていない、残余がある。例えば、倒錯の領野について、我々は触れることができなかった。また、疎外と分離の運動や、現実界・象徴界・想像界の三つ組ついて、随所で関わりながらも、それ自体を独立して詳細に扱うことができなかった。また、精神病者と狂信者を単純に並べて扱うことにも、もちろん無理がある。
 ここで精神病と呼んでいるものは、ラカンがパラノイアという語によって示そうとした、妄想型分裂病からパーソナリティの歪みとしての人格障害にわたる、極めて広汎かつ横断的領野であって、世に言われるところの「精神病」とイコールではない。だがこれについても、粗雑な二項関係に押し込んで議論を圧縮せざるを得なかった。狂信者の多くは、精神病的主体であったり、ある種の人格障害を備えていたとしても、分裂病の発症者ではない。
 まさに、問いは残されている。我々は更に問うことで、語ることをやめず、彼方にほの見える意味に向かって、シニフィアンとフィニフィエを遮る横棒barreをまたいでいかなければならない。この垂直的飛び出し運動においてのみ、意味は、一つの不可能性の実践として、忍術的に成立するものだからだ。
 本論自体もまた、グラフの上部に展開される巨大なクェスチョン・マークのごとく、迂路の形をとった問いであった。ある疑問に答えようとして、大きな疑問符という迂路détourを描いた。その末尾において、暫定的な見通しを示したつもりだが、もちろんこれは仮縫いにすぎない。あるいは、いささか的の外れたところでピンをとめてしまったかもしれない。書かれた途端に書き損ないになるのはテクストの本性だが、問いとは問いつくせない限りにおいて正常な問いである以上、我々は希望をもってよいだろう。というのも今や、立論で予告したように、意味の意味とは問いに対して答えを求める大きな打回路それ自体と表裏一体であることが、一つの自由として、我々の元に降りてきたからである。

 これ以上の飛翔を続けるには、我々の翼はいささか疲れ過ぎた。ひとまずは、止まり木barreの上で、しばしの休息につくことにしよう。

 問いが残され、疑いが残る限りにおいて、信仰は生きる。



「それゆえ、これは失敗である。だがまさに同じところから、一つの過ちerreurとしては、成功である。もっと良い言い方をするなら、一つの散策errementとしては」(Lacan, J.: Télévision Seuil, Paris, 1974, p9)

(神を信じるか、という問いに答えて)
「私が信じるのは、眠りだ」(ブルース・リー)
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